信州 切花 発祥の地
しんしゅうきりばなはっしょうのち
小海線(八ヶ岳高原線)・しなの鉄道 小諸駅から車で5分ほど、千曲川左岸の丘陵地、大久保地内の柳澤家の敷地の道路から見える場所に、高さ1.5mほどの石碑が平成29年(2017) 5月21日に除幕となった。
この地域は、小諸駅から花列車が増結されるほどの菊の産地だったが、始めたのはこの地域の柳澤甫氏。初めてのことはいつも周囲から馬鹿にされるものだが、めげずに研究を続け、時には資産を売り払ってまでした甲斐あって、地区の皆さんとともに菊栽培にはげんだそうだ。農業高校の実習の場としても活用された記録が残っており、また、ここで学び地域外や県外でさらに発展した者も少なくないと言う。
創始者一家には農業に興味を示す若者もいるらしく、将来どのような事業を始めるのか楽しみなのだそうだ。
ここからすぐ上側の
写真
碑文
信州切花
発祥の地平成二十九年五月吉日
柳澤幸雄 建之
菊の秋 ━信州千曲川に沿う村々━
信州小諸を中心とする千曲川の流れにそった村々は、この秋もかおりたかい菊畑に彩られている。浅間山の裾であるこの附近一帯は信州の北海道といわれ、高冷地のため花卉栽培など思いもよらぬこととされていたが、昭和のはじめのころ、北佐久郡河辺村の篤志家柳沢甫氏によってその試みが初めて行われた。当事は村民のものわらいの種でもあり、経営困難のため田畑も手離すほどの苦難の連続であったが、柳沢一家のたゆまぬ努力の結果好成績を上げるにいたり、農家から農家へ、村から村へ拡がって、今日花卉栽培はこの地方の有力な産業となるにいたった。あやぶまれたこの地方の気候もかえって花野育成にとっては好條件であったため、この地方の花卉の主力である菊の場合、他の産地のものに比して花の色にさえがある、水あげもよいといわれる原因にさえなった。
戦時は一時休止していたが戦後は再興の一途をたどり、この河辺村だけでも昨年三十戸だった花卉栽培農家が、八十戸に増加した現状であるという。
八月中旬までは信州菊を東京へ輸送するために、その名も楽しい「花列車」が毎日増結され、特に彼岸前後は信州菊のラッシュで、東京の生花市場は目もあざやかな菊の花束に溢れ、街の花屋の店頭はすがすがしい秋のにぎわいを見せるのである。
東に遠く浅間山を望む農園には、春からの丹精がむくいられて、優美な菊の秋が訪れる。一家七人主人の柳沢甫氏を中心に七十四才のお祖父さんから中学一年生の娘さんまでが、六反歩の花畑の管理にまめまめしく働いて、協力の 花を咲かせているのもまた見事だ。中学生の頃から花が好きで、青年時代は農民美術に関係し、また小学校の代用教員などしていた主人の甫氏は、花卉栽培に専念してより廿六年けわしい創業の道を歩み続けて来た人だ。
昔から慣れ営んできた養蚕から思いもよらぬ花卉栽培への転換。毎夜の家族会議、「花作りをやるなら家のことはお前にすべてを任せる。しかし親を養う義務があるぞ」「任せて下さるなら私が責任者だ。私の命令どおりに皆働くこと」こんな問答が行われたとか。
「そりゃ失敗ばかりで、田圃も畑もみんな売っちゃって」とは今でこそにこにこ顔のお祖母さんの茶のみ話であるのだが、その言葉のかげには一家の暮らしをきりもりしてきたなみなみならぬ苦労のほどがうかがえる。
初夏の百合の開花の頃から秋の菊が終わる頃まで、一日として訪客のない日はない。近くは隣村から、遠くは関東から越後から、はるばる見学に来る人々である。
菊は現在五十種あるといわれるが、さて来年はどんな花を作ろうか、流行は、売れ行きは、と考えるところの布地や洋服の流行にも似て面白い。「婦人之友」
昭和二十六年十一月一日発行
第四十五巻 第十一号
婦人之友社編集部 柿崎平四郎氏著