白みりん 発祥の地(流山駅)
しろみりんはっしょうのち
流鉄
流山は、日本のみりん醸造の半数近くを手掛ける生産地。それまでは赤っぽいものが常識だった味醂だが、赤味のない白みりんを醸造し一般化したのが二代目堀切紋次郎と、五代目秋元三衛門の両豪商。1814年(文化11年)に堀切紋次郎白みりんの醸造に成功し「万上みりん」として販売を開始したことが発祥とされる。秋元三右衛門の「天晴みりん」と共に、江戸川を高瀬舟で江戸まで運んで商売をし成功した。
今ではキッコーマンとして名を轟かせる堀切家の方は全国的に有名だが、秋元三衛門はというと秋元双樹と号する俳人でもあり、小林一茶と親交が深かったとされる。メルシャン流山工場跡地近くにある一茶双樹記念館は、秋元双樹(三衛門)ゆかりの地で見学もできる。
流鉄 流山〜平和台の間には流山キッコーマン㈱の工場がなんとか残っており、みりんの製造を続けているが、平和台駅近くのショッピングセンターがある土地も元はみりん工場だった跡地。近くには天晴みりんの系譜を引く工場が、三楽オーシャン〜メルシャン流山工場として存在していたが、栃木県の日光工場へ移転、移転後に同社のみりんブランド「天晴」を復活させる形で変更。跡地は電器と服飾の大規模小売チェーンがそれぞれ開業した。
野田は醤油の町として広く知られ発展しているが、流山のみりん製造は縮小傾向が止まらないようだ。
なお、同様の表示が隣の平和台駅前にも設置されている。
流鉄は、松戸市の馬橋駅から流山駅までの5.7kmの短い私鉄路線。醤油や味醂輸送を目的に地元民の出資で設立した流山軽便鉄道がはじまり。堀切紋次郎、秋元三左衛門をはじめ、秋元平八(秋元家分家)、中村権次郎、鈴木金左衛門、村松喜太郎などが発起人となった。