水府煙草 栽培 起源の碑

すいふたばこさいばいきげんのひ

水郡線 山方宿やまがたじゅく駅から東、県道33号を市立山田小学校から水府中学校に向かって北上し、中沢の集落から北東方向に狭い山道を400~500m入ったところに、廃寺(安養院)の建物跡があり、「水府煙草栽培起源の碑」と書かれた大きな石碑が建っている。

ここ常陸太田市の南西に位置する赤土町地区は、江戸時代の慶長年間から葉たばこの栽培が盛んになり、日本三大銘葉の1つ「水府煙草」(=水府葉すいふは)の発祥の地と言われている。

ちなみに三大銘葉とは水府葉の他に、国分葉(鹿児島県)と秦野葉(神奈川県)があった。

「水府煙草栽培起源の碑」によると、この地で「水府煙草」が栽培されるようになったのは、1608(慶長13)年に安養院の住職・宥範ゆうはんが江戸に学んだ際に煙草の種子を手に入れ、寺の境内で試しに栽培したのが始まりとされる。その後江戸後期になり、水戸藩主の徳川光圀が水府煙草の栽培を奨励し、赤土村で生産された葉煙草は水戸藩によって買い上げられ、江戸に出荷された。明治時代に入ると太田で開かれる市で葉煙草が盛んに売買され、1877(明治10)年に行われた第一回内国勧業博覧会では、赤土村の水府煙草が一等賞を獲得。銘葉として高く評価されるようになった。

「水府煙草」はキセル用の刻みたばこや口付きたばこの原料に適してたが、この品種は今日では数軒の契約農家だけが特別に栽培する程度に減少しており、現在茨城県で生産される葉煙草のほとんどは“米葉ベーハ”と呼ばれる米国原産の品種に切り替わっている。

写真

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碑文

開世務

水府煙草栽培起源の碑

侯爵徳川圀順公篆額

水府煙草の名夙に天下に喧し而して其産する品茲性■久慈■金砂村赤
土を以て最と為す今その起源を考ふるに慶長中本村安養院の住僧に宥
能といふものあり江戸に到り林羅山に■学せり談たまたま郷里赤土の
事に及ひその痩地粘土にして農作物の乏しきを歎せり羅山之越憐み与
ふるも煙草の種子を以てし之を其地に試作せしむ宥範齋し来り村人金
他次兵衛をして之を寺中の間地に栽培せしむ次兵衛幼時宥範の敬をう
けしもの性質直にして勤勉乃ち師命を■して其栽培に力を費せしに地
味尤も適し枝葉繁茂香気もまた佳良なり■始めて試作せ志は■長十三
年にして今を距ること約三百年前なり後寛永十八年になり初めて之を
水戸藩主に献し爾来年々貢米と共に上納し藩主より更に之を羅山にも
贈られたりこれより後赤土煙草の名各地に伝はり販路も亦漸次に開け
逐に今日の盛を為すに至れり其■時次兵衛の苦心経営常人の堪ふる能
はさるものあり次兵衛其祖を金田小太夫頼次といひ上総介平広常の後
なり子孫累代此地の塁正を勤め其十三世の孫金田熊太郎現に煙草組合
金砂村理事■職もあり今や郡中到る所皆煙草を耕作せさるはなく其収
益年額実に百数十万円を下らすといふこの頃水府煙草生産同業組合長
和田将作御料耕作者及有志等胥■り豊碑を安養院の舊趾に立て其起源
を勒し以て之を不朽に伝へむと欲し文を余に請ふ余■に金田次兵衛の功
を題とし亦この美挙を賛する者乃ち舊記を按してその大要を叙たるこ
と此の如し

大正五年丙辰八月下浣

水戸 栗田勤撰文并書

行誉専西義翁清信士
    貞享二年九月十八日
        行年九十四
  (以下 建碑の発起人氏名等が書かれているが省略)


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地図

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常陸太田市赤土町 付近