薪能 金春 発祥地
たきぎのうこんぱるはっしょうち
奈良 興福寺の広い境内の西寄りにある“南円堂”と“北円堂”の間に“西金堂跡”と呼ばれる空間がある。 江戸時代に火災で焼失した西金堂の跡で 現在は基壇のみが残っていて,周囲は芝生の広場になっている。この空間の北東の隅に 境内の通路に面する形で 白い石碑が建っている。
現代では 各地の神社仏閣などで薪能が催されているが, 興福寺で毎年5月に行われる薪能は 観世・金春・金剛・宝生の四流によって競演され, 他と区別して特に
写真
碑文
薪能金春発祥地
七十九世
金春太夫秦信髙書薪能は久しく薪猿楽と称し古くは薪咒師猿楽とも称せられ,貞観十二年興福寺西金堂の修二会が始行せられると薪迎と共に寺属の猿楽が参勤して修法の外想を表示することを代行し咒師走りと呼ぱれた。後にこの猿楽は春日社にも勤仕し秦河勝よリ直ぐに傅えられたと称する翁猿楽が行なわれ咒師走リの翁として薪猿楽はもとより大和猿楽芸の基をなしたものである。薪猿楽の座は圓満井座,金春座を称し永く本座として薪能やおん祭の能に奉仕し今日に至っている。先年「能と金春」の上梓に伴ない金春晃実師と相計り現宗家始め金春欣三師ほか流儀各位ならびに薪能保存会長谷井友三郎氏らの後援を得て能楽をはじめとする日本芸能の源泉地として,ここに意義ある建碑に至ったことを深く感謝する次第である。
昭和四十九年三月吉日
名古屋市瑞穂区東栄町三丁目二四
施主 廣瀬瑞弘
79世を「七十九を」と記していたが、「世」の変体(くずし字)がひらがな「を」に似ていたため間違えたようだ