「青森」発祥の地
あおもりはっしょうのち
以前はレンタルブティックだった場所が、建物は解体されコインパーキングに。
先日、青森に行ってきたんだけど、「青森発祥の地」というのが現在すごい所になっていてびっくりした。 pic.twitter.com/u86jAMecXj
— 博物月報 (@hakubutu) 2018年9月13日
こちらは青森という呼称の謂れについて宣言しているわけだが、近くの
令和5年(2023) 春頃に表示が新しくなったようだ。
写真
碑文
「青森」発祥の地について
寛永2年(1625)、弘前藩二代藩主津軽信枚は、幕府から津軽・江戸間の廻船運行を許可された。
翌3年(1626)には、信枚は家臣森山弥七郎に積極的な人寄せを命じるなど、藩庁主導による町づくりを本格化させた。
信枚がこの新しい町立てを「青森」と名付けたのは、森山の進言があったからと伝えられている。
当寺、この地(旧:米町、現:本町)に、ハイネズ(ヒノキ科)に覆われた高さ1丈余(約3メートル)の小高い丘があり、それを昔から「青森」と呼んでいたことに因んだものであるという。
なお、「青森」の所在地は、従来、この碑のある本町2丁目(かつての米町)にあったと言われてきたが、平和公園通りの東側で現在の青柳1丁目の南側もしくは同2丁目の北側付近にあったとする説も示されている。
以前の表示
「
青森 」発祥 の地 寛永元年(1624)、津軽二代藩主
信枚 は、森山弥七郎を開港奉行にして、善知鳥村を中心に新しく港町づくりを始めた。
善知鳥村開港決定と同時に、奉行森山は、ただちに町派立に着手した。
善知鳥村と堤川のほとりに点在していた漁村蜆貝との中間に町割(都市計画)をした。
町の区画は海岸線に沿って横に長く、また、八甲田山麓までの湿地帯には、各河川を利用して田畑が拓かれるように考慮した。
表面は商港として幕府の許可を得たが、内容としては、防衛を万全にした町にしたという。
町づくりが開始されるとともに、この開港地の村名が課題になった。旧名のまま善知鳥村とするか、ほかに佳名をつけるかということである。
藩主信枚は、新派立であることから新たな佳名を望んでいたため、奉行森山は「青森」と呼ぶように申し出たという。
当時、善知鳥村の浜辺(旧:米町、現:本町)にハイネズ(ヒノキ科:地元では磯馴松とか浜松とか呼んでいる)の小高い森があった。この森を古くから船乗りたちが「青森」と呼んでいたことから、そのヒントを得た。
末永く栄える意味が内包されていると、藩主信枚にも喜ばれた。以後、青森と名づけることになった。
なお、小高い森は、明治43年(1910)の大火でその跡が消えたという。The Origin of Aomori
The second feudal lord of Tsugaru, Nobuhira,started the construction of a new port town, centred around the village of Utō. When the time came to name the new town, the name "Aomori" was chosen. This came from the nickname "Blue-green Forest," used by the sailors to describe the surrounding forested hills.