「青森」発祥の地

あおもりはっしょうのち

 
撮影:
2023年12月(写真 まさ・なち さん)

以前はレンタルブティックだった場所が、建物は解体されコインパーキングに。

こちらは青森という呼称の謂れについて宣言しているわけだが、近くの善知鳥うとう神社では、善知鳥村が後に青森市と発展していく礎となったことを発祥として謳っている。

令和5年(2023) 春頃に表示が新しくなったようだ。

写真

  • 「青森」発祥の地

碑文

「青森」発祥の地について

寛永2年(1625)、弘前藩二代藩主津軽信枚は、幕府から津軽・江戸間の廻船運行を許可された。
翌3年(1626)には、信枚は家臣森山弥七郎に積極的な人寄せを命じるなど、藩庁主導による町づくりを本格化させた。
信枚がこの新しい町立てを「青森」と名付けたのは、森山の進言があったからと伝えられている。
当寺、この地(旧:米町、現:本町)に、ハイネズ(ヒノキ科)に覆われた高さ1丈余(約3メートル)の小高い丘があり、それを昔から「青森」と呼んでいたことに因んだものであるという。
なお、「青森」の所在地は、従来、この碑のある本町2丁目(かつての米町)にあったと言われてきたが、平和公園通りの東側で現在の青柳1丁目の南側もしくは同2丁目の北側付近にあったとする説も示されている。

以前の表示

青森あおもり発祥はっしょう

寛永元年(1624)、津軽二代藩主信枚のぶひらは、森山弥七郎を開港奉行にして、善知鳥村を中心に新しく港町づくりを始めた。
善知鳥村開港決定と同時に、奉行森山は、ただちに町派立に着手した。
善知鳥村と堤川のほとりに点在していた漁村蜆貝との中間に町割(都市計画)をした。
町の区画は海岸線に沿って横に長く、また、八甲田山麓までの湿地帯には、各河川を利用して田畑が拓かれるように考慮した。
表面は商港として幕府の許可を得たが、内容としては、防衛を万全にした町にしたという。
町づくりが開始されるとともに、この開港地の村名が課題になった。旧名のまま善知鳥村とするか、ほかに佳名をつけるかということである。
藩主信枚は、新派立であることから新たな佳名を望んでいたため、奉行森山は「青森」と呼ぶように申し出たという。
当時、善知鳥村の浜辺(旧:米町、現:本町)にハイネズ(ヒノキ科:地元では磯馴松とか浜松とか呼んでいる)の小高い森があった。この森を古くから船乗りたちが「青森」と呼んでいたことから、そのヒントを得た。
末永く栄える意味が内包されていると、藩主信枚にも喜ばれた。以後、青森と名づけることになった。
なお、小高い森は、明治43年(1910)の大火でその跡が消えたという。

The Origin of Aomori

The second feudal lord of Tsugaru, Nobuhira,started the construction of a new port town, centred around the village of Utō. When the time came to name the new town, the name "Aomori" was chosen. This came from the nickname "Blue-green Forest," used by the sailors to describe the surrounding forested hills.

地図

地図

青森市本町2丁目 付近 [ストリートビュー]