コンタクトレンズ 誕生の地
こんたくとれんずたんじょうのち
名古屋市営地下鉄 栄駅のすぐ近く。錦通と大津通の交差点から少し南側に 細長い「玉水屋ビル」がある。建物の向かって右側の柱に 写真に示すパネルが埋め込まれている。この銅板のパネルは 平成12年(2000) にメニコン㈱によって設置された。
コンタクトレンズの原理は、16世紀にレオナルド・ダ・ヴィンチが視力矯正器具としてアイデアを考案していた。
実際にレンズが作られたのは明治20年(1887) のことで、スイスの眼科医オーゲン・フィックがガラス製コンタクトレンズを作ったのが最初で、昭和23年(1948) になってアメリカでプラスチックのハードタイプレンズが作られ、普及が始まった。
日本におけるコンタクトレンズの開発は昭和25年(1950) ことで、次のようなエピソードがある。
名古屋市にある眼鏡店の老舗・玉水屋に、1人の米軍の将校夫人が訪れた。店員に眼鏡を注文している間に「私コンタクトレンズを持っているのよ」とつぶやいた。当時日本ではコンタクトは専門誌の広告で見る程度で、実物を見たことのある人はほとんどなかった。店員として勤務していた田中恭一氏は「是非見せてほしい」と頼み込んだが「これは私の宝物だから…」と最後まで見せてもらえなかった。
当時23歳だった田中氏は見せてもらえないなら自分で作るしかないと決心してコンタクト作りに夢中になり、わずか3カ月後にコンタクトレンズの実用化に成功した。
田中氏は昭和42年(1967) にコンタクトレンズの会社を創業し「目にコンタクトレンズ」という語呂合わせから「メニコン」をブランド名とした。現在国内トップメーカー・メニコン社の会長である。
その後、平成29年(2017) に玉水屋の営業が終了し、建物が売却され外装リフォームされ、撤去された。どこかに移動したとか保管してあるとかそのようは話は漏れ伝わって来ないが、不動産会社として存続しているのでおそらく事務所保管というところだろう。
写真
碑文
1951年
日本で最初のコンタクトレンズ誕生の地日本で初めての角膜コンタクトレンズは, 株式会社メニコン創業者である田中恭一によって、1951年、ここ「玉水屋」勤務時代の米軍将校夫人との出会いがきっかけで誕生するに至りました。
メニコン