箱崎浦 漁民 集落 発祥の地
はこざきうらぎょみんしゅうらくはっしょうのち
福岡市地下鉄 箱崎線 箱崎宮駅から北北東に200m。箱崎宮駅から箱崎小学校の前を透って北に進むと,右側に“網屋本町地蔵堂”の祠がある。その前に「箱崎本丁」という石碑(旧町名碑)があって,ここに「箱崎浦漁民聚落発祥の地」という文言が書かれている。
詳しい資料がないため かなり推測が入るが,この付近(箱崎1丁目,2丁目など)は 過去に“箱崎本町”という町名で呼ばれ,さらにそれ以前は“箱崎本丁”と呼ばれていたらしい。箱崎地区は古くから開けた町で,西側は玄界灘(博多湾)に臨んでいるため 漁業が盛んに行われ,漁村(漁民集落)が形成されたと考えられる。
箱崎は,鎌倉時代の蒙古襲来の際には戦場になった場所であり,また豊臣秀吉の九州征伐の際には この地で茶会を開く(箱嵜茶会)などの歴史がある。俗に“箱崎千軒”と言われ大きな宿場町でもあった。
町内に 日本三大八幡とされる
写真
碑文
旧網屋本丁
箱崎浦漁民聚落発祥の地で元文五年(徳川時代)漁民組織の実績がある
昭和五十六年十一月建立