名古屋絞 発祥の地

なごやしぼりはっしょうのち

名古屋市営地下鉄 伏見駅の北西 200m。伏見通りの西側, 御園通りに面するカネヨビルの敷地に向かって左手の隣のビルとの境界近くに, 教育委員会の建てた説明板が建っている。

「絞り」とは 布を糸でくくったり縫ったりして シワをつけて“染まらない場所”をつくる(防染)ことに よって模様を染め上げる染色の技法。 日本では, 絹地に精細な模様を染め出す「京絞り(京鹿の子)」や, 麻や木綿に 藍を用いる「藍染め」がある。藍染めの技法を伝える「名古屋絞り」は , 江戸時代初期に 名古屋城築城の際に 九州豊後の人々によって伝えられたと言われ, 尾張藩の保護のもとで発展し, 「有松・鳴海絞」として珍重された。その後も 上品で多様な技法が開発され, 名古屋市・岡崎市・半田市・刈谷市・知多半島などで 現在に引き継がれている。

写真

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碑文

伊藤玄沢げんたく施療所跡
名古屋絞発祥の地

医師伊藤玄沢は、美濃の生まれで、享保九年(一七二四)名古屋に来て医を学び、この地に開業した。宝暦五年(一七五五)八代尾張藩主宗勝より薬種料を賜り、ここで広く貧困者に施療を行った。
また、施療所がなくなった後、有松絞の技術を習得した木綿商の服部与衛門が慶応二年(一八六六) ごろ、この地で名古屋絞の工場を開いた。当初、専業者はわずかであったが、明治三四年 (一九〇一)名古屋国産絞同業組合を結成するなど発展の方策を講じた。

名古屋市教育委員会

Site of Ito Gentaku Clinic and the Birthplace of Nagoya Tie-Dyeing

Ito Gentaku was a physician who received a medical fund from Munekatsu, the 8th Lord of the Owari Clan in 1755, and offered medical services for the needy. Later in 1866, Hattori Yoemon, who had studied the tie-dye technique in Arimatsu Village, came back to establish Nagoya tie-dyeing here.

地図

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名古屋市中区錦1丁目 付近 [ストリートビュー]