日西墨 三国交通 発祥記念之碑

にちせいぼくさんごくこうつうはっしょうきねんのひ

外房線 御宿おんじゅく駅から 南東に1.8km。御宿漁港の北側の小高い丘の上にある“メキシコ公園”に 高さ17.5mのメキシコ記念塔と通称される白い塔が建っている。 塔の側面には「日西墨三国交通発祥記念之碑」と書かれている。

江戸時代初期の慶長14年(1609) のこと。 当時スペイン領だったフィリピンからメキシコに向かった帆船(1000t)が 台風のために日本沿岸まで押し流され、房総半島の 岩和田村(現・御宿町)海岸に座礁した。乗組員 373人のうち317人は 地元の住民に救助され、大多喜城主・松平忠朝の厚遇を受け、 さらに将軍秀忠や家康に面会し、翌年ウイリアム・アダムス(三浦按針)が建造した120tの帆船を与えられて 無事に帰国した。

この事に謝意を伝えるため慶長16年(1611) には メキシコからビスカイーノが日本に派遣され、 徳川家康や伊達政宗等と会見し、更にこれがきっかけとなって 支倉常長等による遣欧使節団のスペイン・ローマ訪問につながった。

長い歴史の中で 房総の寒村での難破船の漂着は小さな事件にすぎなかったが、 その後に続いた一連の動きは、日本の鎖国政策のために実を結ぶに至らなかったものの、 外交史上の大きな動きにつながったことは記憶しておくに値する。

昭和3年(1928) になって 1万1000円(当時)を投じて この巨大な塔が建造され、 塔の表面には 徳川家正公爵の題字とスペイン国王・メキシコ大統領のメッセージがはめ込まれた。

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写真

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碑文

日西墨三国交通発祥記念之碑

日・西・墨三国交通発祥記念之碑由来記

我等が祖先の心意気を
伝えるこの塔は昭和三年
郷土の英傑森矗昶 村長
朝野重雄等発起人となり
地域各町村民はもとより
各界名士の賛同を得永遠
なる国際親交を祈念して
同年十月一日建立された

昭和三十三年九月 三十周年改修
昭和五十三年九月 五十周年改修

千葉県指定重要史跡
ドン・ロドリゴ上陸の地
日・西・墨三国交通発祥記念之碑由来記

一六〇九年(慶長十四年)スペイン領フィリピン総監ドン・ロドリゴを乗せた帆船サンフランシスコ号はフィリピンからメキシコに向け航海中台風に遭遇し漂流、この岩和田海岸に座礁した。

秋九月三十日未明のことである。

乗 組員三百七十三人中五十六人は溺死、残る三百十七人は岩和田村民により救出された。この時海女たちは、飢えと寒さと不安にうちふるえる異国の遭難者たち を、素肌で温め蘇生させたと伝えられている。大多喜城主本多忠朝の判断により遭難者たちは三十七日間岩和田大宮寺に滞在、村民の手厚い保護を受けた後、江 戸城に至り将軍秀忠に謁し、更に駿府に至り家康に謁し、翌一六一〇年家康が三浦按針に建造させた新しい舟を与えられ無事メキシコに帰国した。

翌一六一一年聘礼使ビスカイーノの来日、そして一六一三年支倉常長のメキシコ・スペイン・ローマ特派など、一連の史実はすべてこの岩和田村民の心意気に発するものである。

我等の祖先の美挙を後世に永く伝えるため、また永遠なる国際親交を祈念して、昭和三年十月一日森矗昶、朝野重雄ら発起人となり、この日西墨交通発祥記念之碑が建立された。

地図

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岩和田 付近 [ストリートビュー]