二宮仕法 発祥の地

にのみやしほうはっしょうのち

福島県相馬市の成田地区にある成田多目的集会所の前に「二宮仕法発祥の地」と書かれた柱があり、敷地内に説明看板が立つ。

「二宮仕法」とは、江戸時代に農村指導にあたった二宮尊徳(1787〜1856)が、仏教や儒教仏教、神道の書物から指導のバイブルとも言うべき「報徳仕法」を編み出し、実践したものだ。その教えは「至誠」(まごころを持つ)「勤労」(身の回りからの勤勉のすすめ)「分度」(適量・適度な暮らし)「推譲」(譲る心を持つ)の四本柱で、節約と貯蓄をもって、荒廃した農村を立て直してきたとされる。

説明によれば、その二宮仕法が相馬地方に最初に伝わったのがこの成田・坪田地区であったことが発祥の地のゆえんらしい。相馬中村藩の藩士で、二宮尊徳の娘婿でもあった富田高慶(1814〜1890)が、仕法を伝えたとあり、二宮自身がこの地を訪れたとの記述はない。1845年に、現代の住民投票のような形で地域の模範となる「篤農家」を選んで表彰することから初め、個々の農家の経営を立て直し、ため池や道路の整備などを進めていったとある。この仕法はわずか2年後には大井・塚原地区へ広がっていったそうだ。

大変残念に思うのは、当地にゆかりのあった尊徳の教えで隆盛をきわめたであろう相馬の農業地帯は、福島第一原発の事故の影響であちこちに耕作放棄地が目に付くということだ。最近では二宮尊徳の少年期、いわゆる「二宮金次郎」像が飾られている学校も少なくなっているそうだ。また、歩きながら本を読む姿に「危険なながら歩き」とのたまう人もいるらしい。近隣にいくつもモニタリングスポットのある場所に立ち、現代人こそ、尊徳の教えを活かすべきではないか、と感じた。

立派なの石碑が見えるが、こちらは昭和初期に作られた共同作業場竣工記念とのことで、二宮仕法とは直接関係はない。

写真

  • 二宮仕法発祥の地
  • 二宮仕法発祥の地 説明板
  • 二宮仕法発祥の地

碑文

二宮仕法 発祥の地 ── 成田

人は天地のありとあらゆるものと、先祖のお陰でこの世に生きている。
これに報いることが報徳であり、人の道である。

報徳の訓えに心をはげまし、豊かな相馬を築こう。

相馬における二宮仕法発祥の地

成田 坪田

 ひどく貧しかった相馬の村々を、住みよい理想的な村にかえたいわれた御仕法が、最初に相馬に実施された記念すべき村は成田と坪田の両村であった。
 時は弘化2年(1845)12月1日で、この仕法係高野円吾宅で開業の式をあげ、まず村民一同の記名投票によって、出精奇徳人(篤農家)を選んで表彰することから始められたこうして開墾開拓はもとより各家の経済整理立直しにいたるまで計画的に実行された。
 それからすべて「十指の指するところ、十目の見るところ」にしたがい、当時としては驚くほどの教育的民主的な新しい方法であった。その結果村の風紀まで一新されたという。
 こうして道路は開かれ、溜池はつくられて米の増収を見、善行者は表彰され、病気の者は救われ借金は返済され、古い家は新築された。最後に郷倉に備荒貯蓄が出来てはじめて仕法仕上げと称して、次の待ち望んでいる村に仕法が移されたのである。
 坪田、成田の次には、二年後の弘化4年から多い、塚原その他の仕法がはじめられた。

地図

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福島県相馬市 付近 [ストリートビュー]