能 発祥地 田原本

のうはっしょうちたわらもと

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撮影:
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近鉄橿原線 田原本駅と、近鉄田原本線 西田原本駅の間にあるロータリーの北の隅の観光案内板の脇に石碑を設置、令和8年(2026) 7月に除幕となった。

田原本町が「能楽発祥の地」とされる背景には、古代からこの地域に芸能文化が存在したことがある。奈良時代には現在の村屋神社周辺に楽戸郷《がくとのさと》が置かれ、舞楽や散楽などに関わる楽人が活動していたとされる。平安時代の延喜式にも楽戸郷の存在が記されている。さらに中世になると、大和猿楽の有力な座が成立し、金春・金剛・宝生・観世につながる能楽の基盤が大和で形成された。田原本町には、十六面、舞庄など、芸能に関係するとされる地名も残っている。

町内の味間《あじま》にある補巌寺も、能楽史上重要な場所である。同寺に残る「補巌禅寺納帳」から世阿弥と妻・寿椿《じゅちん》の名が確認され、門前には「世阿弥参学之地」の碑が建てられている。田原本町では、このような古代から中世にかけての芸能文化と、観阿弥・世阿弥や大和猿楽との関係を踏まえて、能楽の発祥地として位置づけている。

写真


碑文

世界無形文化遺産

能 発祥地 田原本

竹田之庄
円満井座
金春座

寄贈 大和磯城ライオンズクラブ
CN50周年記念 令和8年10月

能の歴史
飛鳥時代
552年 仏教伝来と共に、申楽・能の基になる「舞楽」「雅楽」が伝わる。
聖徳太子が田原本町に居住する渡来系氏族秦河勝に六十六曲の「舞楽」と面を伝授する。
奈良時代
752年 東大寺大佛開眼供養の時、日本・新羅・唐・ベトナムの「舞楽」「雅楽」奉納。
唐より散楽が入りこれが申楽の基との説があるが、散楽は曲芸・奇術等大衆芸能で、後の申楽の芸能とは異質で、申楽は「舞楽」「雅楽」の芸風を継承している。
朝廷・式部省が、大和国式下郡村屋邑に、「舞楽」「雅楽」の教処「楽戸郷」を設置後、「舞楽」「雅楽」の充実の為「楽戸郷」を廃止「舞人」「雅人」は各地社寺へ。
平安時代
中期 藤原明衡により著された「新猿楽記」の芸能の内容は、奈良時代唐より入った散楽の曲芸・奇術等と同じ大衆芸能で、「新猿楽記」と題名とするが後の申楽には継ながらない。
鎌倉時代
14世紀 田原本町法貴寺・海の上より、この時代の「翁面」初めて出土。後、越前朝倉遺跡からも出土。
この頃 興福寺荘園「竹田東庄」(現法貴寺付近)に、竹田座(竹田大夫)が成立。
この頃 大和四座が成り、円満井座(後の金春座)が四座を統括し、各地での「申楽」に派遣。
南北朝時代
足利三代将軍義満が京・今熊野で観阿弥・世阿弥「申楽」観能。
室町時代
味間・福厳寺で、観阿弥 禅学修行の為参学 世阿弥 申楽の芸に「禅宗」の教えを学ぶ。
永享元年・1429 足利将軍義教により、世阿弥 佐渡へ遠島される。
永享7年・1435 金春禅竹の佐渡・世阿弥への金品の支援と世阿弥妻寿椿禅尼の教育の禮状(佐渡状)。
嘉吉元年・1441 世阿弥 佐渡遠島より許され金春禅竹か、都の妻寿椿禅尼の元へ世子不在の為、世阿弥の芸能を娘婿・金春禅竹に伝える。世阿弥夫妻の供養田福厳寺へ田一反宛寄進。
金春禅竹能楽伝書 禅竹自筆 金春系図(奈良県指定文化財・宝山寺蔵)にこの時代までの申楽の業態が見える。
安土桃山時代
織田信長 興福寺の寺領 召上げこれにより「竹田之庄」地名消滅。
文禄二年・1593 豊臣秀吉、大和・近江・丹波・摂津の申楽座を大和四座に統一。金春座が頭主。
江戸時代
田原本領主 平野長勝 家臣の内二十二名の金春役者を抱え、月二回から三回の演能を行う家臣・町衆も仕舞・謡を嗜むもの多い。
昭和時代
昭和30年代まで町衆が「田原本金春会」を結成、金春晃実師を招いて仕舞・謡の指導を受ける。
平成時代
平成20年・2008 能・文楽・歌舞伎が「世界無形文化遺産」に登録。
平成26年・2014 田原本まちをすきになる会が、「第一回・田原本の能」開催 以降毎年開催。
令和時代
令和8年・2026 大和磯城ライオンズクラブが、近鉄田原本駅西駅前広場に「世界無形文化遺産 能 発祥地 田原本」石碑建立。

歴史資料及び伝承より 文責 大和磯城ライオンズクラブ

地図

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田原本駅 付近 [ストリートビュー]