三友倶楽部 創業の地
さんゆうくらぶそうぎょうのち
地下鉄 千日前駅のすぐ北。千日前通りから “千日前商店街”を約50m北に入ると,東側のアーケードの柱に幅30cm×縦120cmの大きさの樹脂プレートが取り付けられている。
明治45年(1912) に 大阪ミナミの大火災によって千日前一帯が焼失したため,三友倶楽部の創業者・山川吉太郎は,大正3年(1914) 千日前交差点角に大娯楽センター「楽天地」を建設。さらに「帝国キネマ」を創立し,大阪における映画製作の拠点となり“東洋のハリウッド”と呼ばれた。帝国キネマはその後「大映」を経て現在の「角川映画」となっている。
写真
碑文
東洋のハリウッド・帝国キネマの源流
『三友倶楽部』
創業の地111年前の明治30年に,日本最初の映画娯楽興業が打たれた大阪のミナミ。千日前のこの地にも活動写真館『三友倶楽部』が開館し,明治末にはオーナーの山田吉太郎氏が連鎖劇の製作に乗り出した。撮影所は当時の鶴橋村小橋に設けられ,大正5年に現在の東大阪市小阪に移転し,続いて芦屋や東京巣鴨にも進出。大正9年には北浜の株式界の資金を得て「帝国キネマ演芸株式会社」(通商・帝キネ)を創立。関東大震災で罹災した東京から有望な監督,俳優が移籍し,映画製作における大大阪の文化発信の拠点となる。大正14年に敷地1万坪の長瀬大撮影所を建設し,「東洋のハリウッド」と賞賛された。やがて大不況の折りから業界最大手の松竹系列に入り,昭和5年の長瀬撮影所全焼を機に京都・太秦へ移転し,帝キネも「新興業キネマ」に発展解消を見る。そして,昭和14年には新興キネマ演芸部が新設され,昭和17年の戦時統制で,日活・振興・大都が合併し「大日本映画株式会社」(後の大映)が創立。この地に創業した三友倶楽部は帝国キネマ,新興キネマを経て大映と名前を変え,戦後も映画の黄金期をリードし続けたのである。この地は「大映」と「松竹芸能」の源流である。
平成20年2月7日
千日前商店街振興組合