佃煮 創業記

つくだにそうぎょうき

鹿島線 潮来いたこ駅から北西に6km。国道355号に面して上羽うわは神社(行方市粗毛42)があり,入口の鳥居と社殿の中間,社殿に向って左側に「佃煮創業記」と刻まれた背の高い石碑が建っている。

佃煮の起源については諸説あるようだが,一般には 徳川家康が江戸に幕府を開いた時に,大坂・佃村から漁民を呼び寄せて 隅田川下流の中洲を与えて“佃島”の地名をつけたことに始まる、と言われる。ここ粗毛ほぼけの人・奥村吉郎兵衛は,明治初期に東京 佃島に出て佃煮の製法を学び,郷里に帰って霞ヶ浦で獲れるハゼなどで佃煮製造を試みた。江戸の佃煮が海の小魚で作られたのに対して、吉郎兵衛は それまで肥料にしかならなかった霞ヶ浦の淡水魚を使用し、新しい食品として加工することに成功した。

明治10年(1877)に西南の役が起ると,軍用の食料が腐敗する中で吉郎兵衛の佃煮だけは味が変ることがないため脚光を浴び,その後も佃煮製造は周辺地域に広まり産業として定着し発展した。

ここ行方市粗毛の上羽神社に建つ佃煮創業の碑は,霞ヶ浦・北浦沿岸における佃煮の創業者である奥村吉郎兵衛をたたえる顕彰碑で,1901(明治34)年に建立された。

写真

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  • 上羽神社と佃煮創業の碑

碑文

開物成務

佃煮創業記

貴族院議員正四位子爵新荘置陳篆額

世果無遺利乎曰有伹苦發見之無其人耳霞湖北浦實爲水族之▢數而▢魦魚以其▢少也人棄而不顧焉獨▢▢君乃取人所棄以爲國産代售於遠邇終爲軍旅之用今日賴其利以爲生者至數百人實爲地方之一冨源其功▢調偉矣君穪吉郎兵衛常陸國行方郡麻生町粗毛人祖父小兵衛君無子養宗家金之焏二女以同族助右衛門二男▢之爲嗣襲家名小兵衛即君考也君有長兄曰惣介嗣稱小兵衛君随父別爲家及父歿襲穪吉郎兵衛君自少抱有爲之志長▢家住東京偶見佃煮者嗜之甚多而製之極少因有煮魦魚以爲于産之志於是歸郷謀之奥村謙藏乃試▢厨具製之販干東京實明治七年也然當時未適世之嗜好又屢改善而尚不售意至爲傾産然不少屈大有所悟得製良品嗜好漸多矣會西南之役起其糧食腐餕不可食而本地佃煮獨致遠歸伯▢▢味且足以補食實爲兵站第一之要品矣於是其聲譽隆然起焉霞浦北浦㳂岸爭傚君法以爲業者曰益多遂▢▢▢而不顧者俄致貴價焉明治二十七八年之戰輸送于朝鮮于清國于臺灣其享利者實不貲而本業獨以君為▢▢▢▢姿髙須氏生三男一女女殤明治二十六年七月念九日病歿享年五十又九長男吉之助嗣明治三十三年▢▢▢▢▢相續二男松次郎別爲家各住大坂三男竹三繼父業使花岡長五郎代當統理之任長五郎爲創業興有力焉▢▢之役長五郎大得利而兄▢皆貿易于清國朝鮮益致富▢余聞眞商不獨利亡亦能利世彼狡獪自逞而爭錙銖▢▢▢▢之商矣哉如奥村君之所爲不啻益已亦能益乎國家民人其利澤之所被亦遠矣實冝勒之貞珉以垂不朽也▢▢奥村淺治郎髙崎▢重郎奥村謙藏興同志謀欲録君之事蹟䢖石於霞浦上於是乎記諗後人

明治三十四年六月 須田幹三撰弁書

川崎幸長刻

上羽うわば神社じんじゃ佃煮つくだに創業そうぎょう

 大已貴命おおむなちのみこと倉稲魂命うかのみたまのみことのニ柱を御祭神とする上羽神社と稲荷いなり神社の両社が,拝殿の奥に全く同一の神殿様式で並びまつられている。創祀そうしは明らかでないが,大正元年,村社になった。二月初午の日に「おかけ講」が行われ,十一月三日には例祭が行われている。
 境内には,明治三十四年建立の,霞ヶ浦,北浦沿岸における佃煮創業者である奥村吉郎兵衛おくむらきちろうべえをたたえる碑などがある。吉郎兵衛はここ粗毛ほぼけの人で明治初期,東京にでて佃煮製法を学び,郷里に帰り,奥村謙蔵けんぞうの協力を得て「ハゼ」の佃煮製造を試み,これに成功した。明治十年,西南の役が起こると将兵の食料として脚光を浴び,その後,佃煮製造は周辺に広まり産業として定着し発展した。

麻生町

地図

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行方市粗毛 付近 [ストリートビュー]