野菜の促成栽培 発祥の地
やさいのそくせいさいばいはっしょうのち
明治通り 境川交差点 (江東区 北砂と南砂の境界)の近くに, 志演神社(東京都江東区北砂2丁目1-37)がある。 この境内に JA東京 が設置した 「江戸・東京の農業」シリーズの 標識が建っている。
“「江戸・東京の農業」シリーズの 標識”とは, JA東京グループが 農業協同組合法施行50周年事業として 東京都内各所に設けた 「江戸・東京の農業屋外説明板」のことで, 50ヵ所に設置されている。その中には「早稲田ミョウガ」「駒込ナス」「練馬大根」「亀戸大根」 「谷中ショウガ」「千住ネギ」「砂川コボウ」「吉祥寺ウド」等々の野菜が登場する。 かつては江戸の野菜の供給基地になっていたことが よくわかる。
写真
碑文
江戸・東京の農業 野菜の促成栽培発祥の地・砂村
野菜の促成栽培は 寛文年間(1661~73)の頃, 中田新田の農民, 松本久四郎が考案した と言われています。
初物を食べる というぜいたくが広がり過ぎると, 農家は米麦など基本食糧の生産よりも, 高く売れる 初物づくりに力を入れるようになり, また, 庶民のぜいたくは, 身分制度をゆるがすことになるとして, 江戸幕府はたびたび, 出荷日を統制する法令, 促成栽培禁止の町触れを 何回も出して, 取り締まりました。
この促成栽培の方法は, ゴミを堆積すると発酵熱が出るのを利用し, 江戸市中から出るゴミ(江戸ゴミ)を堆積, この熱を利用して 早く野菜の種をまくことで, 収穫が早くできるようになりました。明治維新以後には一層盛んになり, 昭和に入って産地の中心が江戸川方面に移るまで続きました。
江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した, 見事なリサイクルが 昭和30年代まで展開されてきた事実にも 驚きと先人の苦労がしのばれます。平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行50周年記念事業THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Suna-Mura, the Origin of Vegetable ForcingForcing culture of vegetables is said to have been devised by a farmer Kyūshirō Matsumoto of Nakada-Shinden around the years 1661-1673. He made use of the heat of fermentation of piled garbage. By using the garbage collected from the city of Edo, vegetables were planted earlier on the seed bed over the piled garbage and production had long been practiced until around 1950s.