不動岡 高等学校 発祥の地

ふどうおかこうとうがっこうはっしょうのち

 
撮影:
2020年4月(写真 まさ・なち さん)

東武伊勢崎線 加須(かぞ)駅~(みなみ)羽生(はにゅう)駅の中間あたりに、不動岡高校発祥之地公園 (加須市不動岡3丁目27-7)があり、公園南側に大きな石碑と教育委員会による説明板が設置されている。

説明板では石碑の碑文をそのまま写しているようなので、碑文の表示は省略した。

なお、参考にしたページは番地が異なっており、移動したのか、住居表示が変更になったまま修正されていないのか、そもそも誤記なのかはよくわからない

写真

  • 不動岡高校発祥之地公園
  • 不動岡中學校發祥之地 碑
  • 不動岡高等学校発祥の地 説明板
  • 不動岡中學校發祥之地 碑
  • 不動岡高等学校発祥の地
  • 不動岡高等学校発祥の地
  • 不動岡中学校発祥之地石碑と、不動岡高等学校発祥の地説明板
  • 不動岡高校発祥之地公園 入口

碑文

市指定史跡

埼玉県立不動岡高等学校発祥の地

昭和六十年一月指定

埼玉県内最古の高等学校である不動岡高等学校はこの地に開校された。
昭和十一年、創立五十周年を記念して建てられたこの創建の碑にはその由来について次のように刻されている。

司法大臣正三位勲一等法學博士 林 頼三郎閣下篆額

明治の初年文教未だ(あまね)からず地方好學の青年深く之を歎く 偶其十一年三月北埼玉郡不動岡村に小學校教員養成所として第十三番中學區講習校設置せられ向學の途稍開く 然るに僅𛂌(に)二年にして廃止せられ地方の有志甚だ之を憎む (よっ)て力を協せ資を集めて私立會川中學校を建て十三年四月開校の式を行ふ 翌年三月埼玉縣より町村聯合中學校の設置の諭達に接し公立不動岡中學校と改称したるが十七年七月に至(り)公立羽生中學校を合併して公立不動岡羽生中學校と改め十八年さらに公立成田中學校を合併して北埼玉郡立中學校と改稱𛁏(す) 即ち一郡一校なり 此の時此の地其の校舎敷地となる設備漸く整ひ校運著しく進む 何ぞ図らむ其乃翌十九年中學校令の改正𛂌會ひ四月五日(つい)に廃校の運命に臨む (しか)も識者深く地方教學の前途を慮り共に謀り互に勵みて遂に克く縣下唯一の中學校を建立す 乃ち私立埼玉英和學校と稱して開校の式を擧ぐ 實に其の十二月四日𛂁(な)り 爾来(じらい)關係者常に相提携し就中(なかんづく)網野長左衛門岡戸文右衛門両氏は何れも父子相共に校長川名渡一氏を輔けて本校發展の機を進め越えて二十七年七月校名を私立埼玉和英學校と改め文部省の認定を得て校運年と共に隆え三十年更𛂌私立埼玉中學校と改稱す 當時縣下尚中等學校尠きを以て遠く他郡より來り學ぶ者多く教育の効果廣く旦深きものあり 然れども日露戰役後國内乃文運俄𛂌興り地方の私學は却て其の経營年と共に因難を増し殊𛂌世界大戰に伴ふ經済界の変調は質實𛂁る育英の事業に深刻なる打撃を加へ來れるを以て常に本校の隆替を念とせる有志先覺の士熟議奔走の末土地一萬坪及び金3萬圓を添へて之を縣に寄付し(ここ)に大正十年四月縣立不動岡中學校の出現を見るに至れり (けだ)(また)多年の宿望と幾多の辛苦との報いられたるなり 斯くして校舎を現敷地に移す 是に於て出身者並に有志者相謀りて其乃その發祥の地に記念の碑を建て以て深く本校の歴史を偲び末永く其の業績を傅へむとし余に出身の故を以て其の撰文を懇嘱す 仍て謹みて其の沿革を述ぶ

昭和十一年十一月十一日

國學院大學長文學博士河野省三撰文
埼玉縣立不動岡中學校教諭正七位 吉田 久 書

昭和六十年一月

加須市教育委員会

不動岡中學校
創建之地


(碑文略)

地図

地図

加須市不動岡3丁目 付近 [ストリートビュー]