群馬県 における 砂防事業 発祥の地
ぐんまけんさぼうじぎょうはっしょうち
上越線 八木原駅から南西に8Km。榛東村役場から100mほど南西の八幡川に架かる“水沢群馬橋”の横に「八幡川とデ・レーケ」という説明板がある。八幡川は榛名山東麓、陸上自衛隊相馬ヶ原演習場の北側を流れる川で、上流の4号堰堤の近くにもほぼ同じ内容の説明板が建っている。
江戸時代までの日本の河川は自然のままに流れ、いたるところで毎年のように氾濫を繰り返していた。河川が大洪水にも耐えられるようになったのは明治中期以降になってからで、大正・昭和期まで続けられた大砂防事業によってであった。
榛名山の東麓斜面に位置する
ヨハネス・デ・レーケは明治6年(1873) に明治政府の要請によって来日したオランダ人技術者で、その後30年にわたって日本に滞在し、淀川・木曽川・九頭竜川など日本各地の河川改修に尽力した。「川を治めるにはまず山を治める」という基本理念で、荒廃していた山地復旧のために禿げ山の山腹工事・造林・土留めのための石積堰堤の築造などに関する技術指導を行い、日本における近代的な砂防技術の黎明期に大きな貢献をした。
榛名山麓には堰堤120ヶ所、石垣134ヶ所が築造されたと言われ.現在も28基の堰堤が残されている。
ここ八幡川には明治期に構築された石積堰堤である“デ・レーケ式石積堰堤”4基などが現存しており、現役の砂防施設として機能している。
写真
碑文
八幡川とデ・レーケ
明治政府は、日本の近代化を目指し、ヨーロッパ近代科学の導入に力を注ぎました。砂防の分野でも明治6年(1873) に、オランダ人技師デ・レーケ(JohannisdeRijke, 1842~1913)が来日し、近代砂防技術を我国に紹介しました。彼は日本各地で技術指導を行い、我国の砂防技術の発展に大きく貢献しました。本県においても明治14年から18年にかけ、榛名山麓一帯でデ・レーケの指導による砂防工事が行われました。この時の巨石堰堤がこの八幡川の上流約1200mのところにあります。これは現存する施設として、全国的にみても極めて貴重なものであり、今でも土砂の流出防止、山腹の崩壊防止に役立っています。八幡川は、群馬県における砂防事業発祥の地といえます。
群馬県渋川土木事務所