保健所 発祥之地
ほけんじょはっしょうのち
西武鉄道 所沢駅東口ロータリー入口付近の歩道の縁に、大きな石碑が立つ。
日本の保健所は、ロックフェラー財団の支援により昭和12年(1937) に東京 京橋に建てられた「都市保健館」と、所沢に建てられた「農村保健館」に始まった。「農村保健館」は 3年後の昭和15年(1940) に「所沢保健所」と改称し, 昭和39年(1964) にけやき台2丁目に移転している。平成21年(2009) には狭山保健所と統合されて閉館、平成28年(2016) に取り壊された。
所沢駅近くの2箇所の発祥碑とは別に, 所沢駅の北東100mの“長者久保公園”内には 「農村保健館跡」という大きな石碑が建っている。
この石碑は、もとは西武池袋線 西所沢駅北側、宮本町”交差点北にあった“所沢保健所”敷地内にあったが、所沢保健所が平成21年(2009)に狭山保健所と統合され、平成28年度(2016)に取り壊され更地となった。
- 保健所発祥之地(所沢保健所敷地内)
都市保健館についても記念碑がある → 都市型保健所発祥の地
写真
碑文
保健所発祥の地
保健所発祥之地由来記
昭和五年 米国ロックフェラー財団から我国に公衆衛生技術者教育機関を寄付する意向が示され昭和六年 中央に教育機関の公衆衛生院を置き 都市及び農村地区にそれぞれの臨地訓練機関の保健館を設置することになった。
その後 この計画案の実施には種々の紆余曲折があったが,昭和八年再び継続されたものである。 昭和九年 当時の内務省内に設けられた公衆衛生技術員養成機関建設委員会は 百余万ドルの予算で昭和十二年工事を完了し 公衆衛生院は日本政府に都市保健館は東京市へ 農村保健館は埼玉県に寄付された。
これより先 昭和六年内務省から埼玉県へ選定依頼のあった「模範衛生実習地区設置」については所沢町外六箇村が推薦され 農村保健館の受入れ態勢が整えられていた。
昭和十二年一月四日 本県は所沢町に県立特別衛生地区保健館の設置を告示し 町村組合共同病院内に仮事務所を置き 農村保健館の業務を開始した。
この年の四月には保健所法の制定があり 奇しくも時期を同じくしている。
昭和十三年十月十日 農村保健館は所沢町大字所沢に完工落成し 昭和十六年四月一日 農村保健館は保健所法に基づく所沢保健所と改称された。
昭和三十九年十一月 保健所は現在地に新築移転し 旧所屋は所沢市に移管されて 所沢市医師会立准看護学院等に利用されてきたが,都市計画事業が進むに伴い昔の由緒ある建物等は,近くその姿を消すことになっている。
わが国の公衆衛生関係者の大多数は 公衆衛生院に学び 保健館及び実践活動の場として研鑽を積まれている。いわば保健館は公衆衛生活動の礎でもあり古里でもあり 現在全国八百五十余の保健所網の起源である。
ここに農村保健館満四十周年にあたり各地の有志からの浄財を得て,その跡地に記念碑を建て先賢の偉業をたたえ将来の公衆衛生活動の進展を祈念するものである。
題字「保健所発祥之地」は初代農村保健館長 保健所長であった與謝野光博士の染筆である昭和五十二年五月十二日
本記念碑の建立にあたっては,埼玉県にはもとより全国の衛生関係機関の賛同者,各種団体等多くの方々からの篤志が寄せられたことを刻して深く感謝を捧げます。
前面の由来記は,埼玉県所沢保健所長小宮山茂人氏の起草によるものであります。
農村保健館記念碑建立発起人代表
全国衛生部長会会長 湯沢新治
全国保健所長会会長 則松正二
国立公衆衛生院長 染谷四郎
(財)日本公衆衛生協会理事長 若松栄一
埼玉県衛生部長 村瀬公二