関東地方 甘藷 栽培 発祥の地
かんとうちほうかんしょさいばいはっしょうのち
東金線 東金駅から南東に約8Km。町立豊海小学校の校門からの道が県道75号線に交わる角の所に、横長の石碑が建っている。
蘭学者 青木昆陽は、江戸中期に「藩薯考」を著し、甘藷(さつまいも)が食糧として有用であることを説き、8代将軍徳川吉宗の命により、まず小石川の養生所で試作を行い、ここで得られた種イモを各地に分配して栽培を奨励した。下総国では現在の千葉市幕張町とここ九十九里町で甘藷の試作を行った。
房総の台地は甘藷の栽培に適しており、試作は成功。甘藷は房総の特産品として広く普及した。その後天明の大飢饉の際にもこの周辺の人々は餓死者を出さずにすみ、また太平洋戦争後の食糧難においても多くの国民の命を救った。
写真
碑文
関東地方 甘藷栽培発祥の地
題字 千葉県知事 沼田 武
甘藷栽培発祥之地来歴
サツマ芋ト俗称スル甘藷ハ庶民的ナ食物デ享保二十年(1735年)甘藷先生デ名高イ青木昆陽ガ徳川幕府ノ命ニヨリ小石川養生書薬草園デ研究シ下総国千葉郡馬加村(幕張)デ試作シタ
コレト時ヲ同ジクシ幕府直轄事業トシテ蕃藷考(栽培参考書)ト種芋ガ江戸町奉行大岡越前守ノ直轄領地「不動堂村」代官 赤松源之進典村ノモトニ届キ源之 進ガ率先シテコレヲ栽培シ近隣農家ニ普及シタ 享保ノ飢キンヲ救イ 太平洋戦争(1941年~45年)ノ戦中戦後ノ食糧難時代ヲ救イ農家経済ヲ潤シタ甘藷 ノ栽培ハ コノ地「不動堂」コノ場所カラ普及シタモノニアリ 昭和四十三年(1968年)十一月 明治百年祭事業トシテコノ記念碑ヲ建立シタ九十九里町郷土研究会
千葉県指定史跡
青木昆陽不動堂甘藷試作地・
関東地方甘藷栽培発祥地の由来昭和四十四年四月十八日指定
江戸時代,明和・天明・文化・天保の各年代の大ききん,さらに下っては太平洋戦争後の食糧難に多くの人命を救ったのは甘藷が大きな役割を果たした。
甘藷の我国への渡来は慶長十年(1605年)琉球に伝わり元和元年(1615年)英人が長崎にもたらし,享保十六年(1731年)石見(現島根県)大森の代官井戸平左衛門正明が旅僧に勧められききん対策として栽培したといわれている。
享保二十年(1735年)青木昆陽が幕命によって甘藷を小石川の養生所内薬草園で栽培したのを更に八代将軍吉宗の命で南町奉行大岡越前守組与力給知の下総国千葉郡馬加村(幕張町)と上総国山辺郡不動堂村(現九十九里町)で試作することとなった。
こうして非常用食糧の甘藷栽培は幕府直轄事業として青木昆陽の著述した蕃藷考(栽培方法を書いた本)によって試作され,不動堂村では地方代官赤松源之進典村のもとで栽培に成功した。
たまたま明治一〇〇年祭(1968年)記念事業としてこの記念碑が建立され昭和四十二年十一月九日除幕式を行った。昭和六十年二月十二日
千葉県教育委員会
九十九里町教育委員会