観世 発祥之地

かんぜはっしょうのち

近鉄橿原線 結崎駅から 西に1.2km、糸井神社の前から宮前橋を渡って, 大和川の支流である寺川の提を東へ100mほど行くと面塚公園(川西町結崎)がある。ここには 「面塚」の碑と「観世発祥之地」の碑があり, また 観世発祥の地の説明板や 「面塚古跡」の碑など いろいろなものが建っている。

奈良時代の頃 中国から入った散楽(さんがく)は,曲技・歌舞・物まねなど雑多な内容を含む芸だったが, 平安時代に笑いの芸能に中心が移って 猿楽(申楽)となり, これが能楽に発展した。室町時代には,諸国の猿楽座の中で“大和猿楽”が興福寺・春日大社などの保護を受け, 金春座・金剛座・宝生座・結崎座 (観世座) という“四座”が成立した。

観阿弥は伊賀の出身で観世清次といい, 結崎に移り住んで“結崎座”と称して能の道に精進し, この地は 観世流の発祥の地とされている。 昭和11年(1936) に 観世流24世宗家観世左近師の筆跡により「観世発祥の地」「面塚」 という二つの碑が建立された。

「面塚」に関して 地元には次のような言い伝えがある。

14世紀 室町時代のころ, ここ結崎の地に 能楽の観阿弥が住んでいた。 三代将軍・足利義満に能楽の上演を求められその成功を糸井神社に祈願していたところ, 突然 天から翁の能面と青ネギが降ってきた。その面を使って将軍への演能が成功を納めたので 糸井神社の東の地に塚を作り“面塚”と呼んだ。 ネギはその場に植えられ“結崎ネブカ”と呼ばれ“甘くておいしい”名物作物になった。

「能面とネギ」とは 何ともチグハグな組合せの伝承である。

写真

  • 面塚 観世発祥の地
  • 面塚
  • 観世発祥之地

碑文

観世発祥之地

二十四世 観世左近筆

面塚 観世発祥の地

 いつの世の頃にか, この地に天から「翁の面とねぎ種」が降って来たとの伝承があり「面塚」と称した。伊賀の国小波多に座を創った観阿弥, 世阿弥父子がこの地に移り, 結崎座と称して芸道に精進した本拠の地の跡である。観阿弥父子はここより南都春日大社, 興福寺の能に参勤し, その後京都今熊野の能に於いて室町幕府の三代将軍足利義満に見出されその知遇を得て益々円熟の芸境に到達していくのである。

 大和にはこの結崎座の他に, 円満井「金春」外山「宝生」板戸「金剛」の三座があり, いずれもが南都の能に参勤していた。これらを大和猿楽の四座と称する。
 もっとも古来面塚伝承の地はここより北へ約10メートルの所にあって昭和11年5月観世流二十四世宗家観世左近師の筆跡により「面塚」・「観世発祥の地」 の二碑を建立されたが, その後昭和30年寺川の改修工事のため, 現在の地に移された。

平成6(1994)年4月1日

川西町教育委員会

地図

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磯城郡川西町結崎 付近 [ストリートビュー]