近代 測量 発祥の地
きんだいそくりょうはっしょうのち
東北自動車道 西那須野塩原I.C. の北西約900m、国道400号沿いの農研 畜産草地研究所(那須塩原市千本松768 )入口脇の空地に径約2m、高さ80cmほどと見られる小振りな塚がある。この塚は那須基線の北端点だった場所で、明治8年(1875) に 内務省が設置した日本の三角測量の基準となる縦線の北端点だった。
当時は建物や新幹線等の構造物もなく、周囲は平坦な土地であり、基線設置には良い土地柄だった。
この後、参謀本部が相模原〜座間にかけて相模野基線を設置する。測量は重要な軍事情報であるため陸軍省の管轄となった。正確を期してされる測量でも誤差があらわれるため、内務省設置の那須基線は廃止され、那須基線を基準とした三角点は抜き取られた。
なお、約10km南の大田原市親園上ノ原に那須基線の南端点があり、大田原市によって整備されているが「発祥の地」とは書かれていない(笑)。
参考:熊鷹山の風景 ブログ2(予備.zip)、栃木県の土木遺産(予備.zip)
写真
碑文
史跡
千本松 の観象台 那須塩原市指定文化財
昭和四七年一二月一日指定観象台は明治初年(一八七〇年代)における近代的
三角測量 の一つの起点となった所であり、日本における近代測量発祥の地です。
この一体は、江戸時代から明治一〇年代(一八八〇年前後)にかけて、那須野が原と呼ばれる広大で平たんな原っぱでした。そのため三角測量の場として選ばれ、基準となる基線(二点を結ぶ測量の線)が設けられました。千本松を起点とし、大田原市親園 を南点とする那須 基線 の距離は、明治一一年(一八七八)に行われた複数回の測量の結果一万〇六二八・三一〇五八九㍍(約一〇・六三㌔㍍)とされました。当時の観象台には切石が組まれ、その上には木造のやぐらがあり、測量や天体観測が行われていました。そのため、周辺の地域を含め「観象台」と呼ばれ、開拓民に親しまれました。
千本松の観象台は昭和一六年(一九四一)に発掘され、中から切石を組み立てた構造物が出てきました。その後、保存のために盛土で覆い、現在に至っています。塚のわきにある石の水準標は、かつて近くにあったものです。那須塩原市教育委員会
史跡 観象台
西那須野町教育委員会
昭和47年12月1日指定