近代 造船 発祥の地
きんだいぞうせんはっしょうのち
国道220号線が南下して桜島にぶつかる数km手前に“道の駅たるみず”がある。この敷地内の桜島寄り西端に「近代造船発祥の地・国旗日の丸のふるさと」と刻まれた石碑を台座にして、上部に3本マストの帆船の模型が載ったモニュメントが設置されている。
この帆船は、幕末に薩摩藩が建造した洋式軍艦“昇平丸”の1/6サイズのモデルで、全長5.17m(実物は31m)。台座の中央には碑文の書かれたパネルが配置され、右側には島津斉彬公の肖像画、左側に瀬戸海峡の絵が添えられている。
現在大隅半島と桜島はつながっているが、かつて桜島は文字通り独立した島で、大正3年(1914) の大噴火によって大隅半島と陸続きとなった。つまり大隅半島と桜島の間には400mほどの海峡で仕切られていた。
薩摩藩の島津斉彬は、幕末に西欧列強が武力で圧力をかけてきた際に海防の重要性を認識し、桜島と大隅半島の3ヶ所に造船所を設け、大型船の建造を始めた。安政元年(1854) に昇平丸、次いで鳳瑞丸・万年丸・大元丸・承天丸の合計5隻の帆船が完成した。それ以前は幕府の方針で、大型船の建造が禁止されていたため、これが近代的な大型船の造船の発祥となった。
一方、日本でも洋式帆船が建造されるようになったため、日本の船を識別する目印が必要となり、島津斉彬が提案したのが“白地に赤い丸”の日の丸だった。これが幕府に受け入れられ、日本の船を示す旗“総船印”として“大隅半島と桜島の間の海峡”で造られた昇平丸に掲げられた。後に日の丸は国旗として認められた。
しかし、日の丸は斉彬が創作したものではなく、飛鳥時代末期から“日ノ本”を象徴するマークとしてこのデザインが使われていたようで、斉彬はこれを正式に日本の旗とするように提案したものである。
このモニュメントは「近代造船発祥の地」かつ「国旗日の丸のふるさと」であるが、「日の丸発祥の地」ではない。しかしモニュメントの裏側には設立者名として「国旗日の丸発祥の碑建立期成会」と書かれており、やや奇異な感じがする。
本当は「日の丸発祥の地」とする予定だったものが、何かの都合で「日の丸のふるさと」に変わってしまったのだろうか。
写真
碑文
近代造船発祥の地
国旗日の丸のふるさと幕末、西欧列強が東アジアに進出してきた時代に、島津家二十八代当主島津斉彬公は「海から来る敵は海で防ぐべきである」と考え、桜島の瀬戸・有村、垂水の牛根に造船所を設け、洋式軍艦の建造に取り組まれました。また嘉永六年(1853)、ペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府が海防の必要性に気づくと、幕府に大船建造の解禁と、軍艦十五艘の建造を願い出られました。そして瀬戸で昇平丸、有村で大元丸・承天丸、牛根で鳳瑞丸・万年丸が建造されました。軍艦建造は五艘で終わりましたが、大隅半島と桜島の間の海峡のこの地は、日本における近代造船発祥の地となりました。
また斉彬公は、昇平丸の建造中、大船建造の解禁を願い出られた際、日本の船と外国の船を区別するため白地に赤い「日の丸」を掲げるよう幕府に提案されています。これを受けて、翌安政元年(1854)七月十一日、幕府は「日の丸」を日本の総船印と定め、安政二年(1855)春、幕府に献上するために鹿児島を出航した昇平丸に日本総船印としての「日の丸」が掲げられ、万延元年(1860)には国旗へ昇格したのです。
大隅半島と桜島の間の海峡は
“国旗「日の丸」のふるさと”でもあるのです。
国旗日の丸発祥の碑
建立期成会会長 園田純俊
副会長 田中幹夫
〃 八木申一郎
幹事長 小森浩
監査役 松下祐輔
〃 田中伸一
実行委員長 宮田友
実行委員 山下賢太郎
〃 森昌弘
〃 田上桂
〃 松元武志