京都 種痘術 創始五十年
きょうとしゅとうじゅつそうしごじゅっしゅうねん
この碑は 嘉永2年(1849) に京都で最初に種痘が行われてから 50周年になるのを記念し, 種痘を行った 日野鼎哉を顕彰するために 明治31年(1898) に建てられたもの。 昭和25年(1950) に中京区壬生東高田町の医師会館(当時)敷地に移転、その後平成22年(2010) 10月に医師会館が二条駅前(中京区西ノ京栂尾町3-14)に移転したのにくっついて当地に移された。
医師会館は駅ロータリーに面しているが、石碑は裏側の中庭駐車場の一角で、広く衆目を集めることはない。
日本では 奈良時代以降 百回に及ぶ痘瘡(天然痘)の流行が記録されていると言われ, その間に 非常に多数の犠牲者を出し, 治癒しても「あばた」を苦にして一生を過ごさなければならず, 大変恐れられた病気だった。一度痘瘡にかかった人は 二度と痘瘡にかかることがないことは知られており, このため 積極的に人の痘瘡に感染させる「人痘法」が用いられたことがあるが, そのまま 重い痘瘡を発病することがあるため, この方法は広く利用されることはなかった。
イギリスにおいて エドワード・ジェンナーが「牛痘法」を確立したのは 寛政8年(1796) のことで, この情報は オランダ人によって長崎の出島に伝えられ, 嘉永2年 (1849) になって 牛痘の種(カサブタ)を輸入することができた。この種は すぐに京都の日野鼎哉に届けられ, 一人の子供に発症が確認され 種痘は成功した。 これをもとに 次々に広めることができた。
種痘はその後 大阪(緒方洪庵), 福井(笠原良策), 金沢, 名古屋 などにも伝えられたが, 江戸に伝えられたのは やや遅れ, お玉が池に種痘所が設立されたのは安政5年(1858) のことであった。
写真
碑文
紀念
京都種痘術
創始五十年明治三十一年十一月十一日
祭典執行 発起人 二十九名(有志芳名省略)
この碑は明治三十一年十一月十一日京 都種痘術創始五十年を記念するため祭典 執行発起人二十九名によって鳥辺山西大 谷墓地に在る故日野鼎哉先生の墓(無縁 墓となり棹石は現存しない)の台石上に 建てられていたものである
よって本会は種痘伝来一百年記念継続事 業として昭和二十五年六月十二日新たに 右台石上に「種痘始祖 日野鼎哉先生の 墓」を再建し永久にこれを管理するとと もに本記念碑を此処に移し保存すること になったのである昭和二十五年六月
京都府医師会