明治維新 発祥地
めいじいしんはっしょうち
和歌山線 五条駅から南東に1km。奈良地方裁判所の東隣にある五條市史跡公園に、自然石に「明治維新発祥地」と書かれた大きな石碑が建っている。またすぐ南の国道24号線から史跡公園への入口付近には「天誅組・明治維新発祥の地」という大きな案内看板が出ている。
五條市は奈良県南西部に位置し、この地方の中心地であり、吉野山への入口となる交通の要衝。古く南北朝時代には、一時的に南朝の首都となったこともある。(五條市賀名生)
幕末の明治16年(1883)、京都朝廷において尊王攘夷の断行を祈願するための“大和行幸”が決まった。これを機に一気に倒幕を果たそうとする中山忠光・吉村寅太郎ら 尊皇攘夷派の一部が、行幸の先鋒となるべく大和に入り挙兵して「天誅組」を名乗った。五條代官所を焼き払い、ここを「天朝直轄地」として近くの桜井寺を本陣として「五條仮政府」と称した。
ところがこの直後、京都では政局が一変し、尊攘派の排除され大和行幸は中止。天誅組は大義名分を失い、一転して“暴徒”として追討が命じられた。幕府も天誅組追討を命じ、1000人ほどの天誅組に対して1万人を超える追討軍にには手も足も出せず、挙兵から 1ヶ月余りで壊滅した。
皮肉なことに、このこの“天誅組の変”の5年の後に、明治維新が実現している。
五條においては、天誅組は幕末における下級武士らによる最初の武装反乱であり、倒幕・明治維新のさきがけとなる歴史的な“義挙”であるとして、「明治維新発祥の地」として記念碑を建立した。
明治維新のような歴史的な現象は、諸々の出来事や社会情勢などの混沌とした組み合わせの中で発生するもので、特定の事象から始まった(=発祥した)というのは相当な無理があるが、五條市は大真面目である。
ちなみに、山口県下関市にも「維新発祥の地」があるが、こちらは明治維新に際して長州藩が果たした役割を讃える内容となっている。
→ 維新発祥之地
写真
碑文
明治維新発祥地
明治一〇〇年記念事業として旧代官所跡(現史跡公園)に建立
五條市長 田中勇治郎