紋平柿 発祥の地
もんぺいがきはっしょうのち
七尾線 宝達駅から南東に3km、小さな集落の一角に高さ1.5mほどの石碑が建てられ令和3年11月に除幕式が催行された。
写真
碑文
紋平柿発祥の地
「紋平柿」由来の地」
江戸時代後期(一八〇〇年頃)宝達集落(上野地区)のこの地に「紋平さ」という屋号の農家が住んでいました。
ある碑、紋平さが屋根葺きの作業中に飛んできた柿の種を家の前に植えてみたところ、大きな渋柿ができ、それをさわして(渋抜きして)食べてみたところ、とても甘くて美味しいさわし柿ができました。
そのさわし柿がとても美味しかったため、「紋平さ」の柿の木を母樹として、宝達山麓の周辺集落に広まっていきました。「紋平さ」の柿の木から穫れたことから、その柿は「紋平柿」と呼ばれるようになりました。
明治となり、平民苗字必称義務令により、「紋平さ」は「野村」の苗字を名乗ることとなりました。野村家の旧墓は今も近くの山中に残っています。
紋平柿の母樹(直径一mの大木)は、一九六〇年代の林道(現在は県道)の拡張工事の際に切り倒されました。
昭和に入り、「紋平さ」の家屋敷は「野村家」から「上森家」のものとなり、その後取り壊されました。跡地は杉林となりましたが、その一部を町が借上げ、この碑を建立、今日に至っています。令和元年(二〇二一年)十一月吉日 宝達志水町