日本電池 発祥地
にっぽんでんちはっしょうち
地下鉄烏丸線 今出川駅から 西に400m。今出川通から 新町通を北に向かい、同志社大学新町キャンパスの南面に道路に向かって自然石に「日本電池発祥地」と刻まれた石碑が,すぐ近くに「同志社大学 旧臨光館(旧日本電池 本社社屋)外壁の一部再現について」と題した 副碑が建っている。
日本電池株式会社(Nippon Denchi Kabushiki Kaisha)は 大正6年(1917) に 島津源蔵によって設立され,鉛蓄電池をはじめ各種の電池を製造した。
島津源蔵(2代目)は 島津製作所の創業者・初代島津源蔵の長男で,父親の死後 島津製作所の2代目社長となった。 島津製作所で 鉛蓄電池を開発。第一次世界大戦の勃発によって ドイツからの蓄電池の輸入が途絶えたため 需要が急増したため, 電池部門が独立して日本電池㈱となった。本社はこの地に置かれていたが,昭和17年(1942) に 京都市南区に移転。さらに この地に残った 今出川工場も 昭和34年(1959) に廃止になり,敷地は 同志社大学に売却された。
なお,日本電池は 平成16年(2004) にYUASAと経営統合し, 現在は ㈱ジーエス・ユアサ コーポレーション(持ち株会社)となっている。
余談だが 製品名や社名の一部になっている“G”は,島津社長の頭文字から来ている。
写真
碑文
日本電池
發祥地昭和三十四年七月建之
同志社大学 旧臨光館(旧日本電池 本社社屋)外壁の一部再現について
1917(大正6)年,GSバッテリーの製造で知られる日本電池株式会社(現 株式会社 ジーエス・ユアサ コーポレーション)がこの地で誕生しました。島津製作所が1912(大正元)年から 当地で営んでいた
蓄電池 工場を母体とし,当時の政府・財界の協力で設立されたものです。
蓄電池需要 の増大に応えるため,1921(大正10)年には,地上3階,地下1階,延べ 2970㎡の本社社屋が完成しました。(右の写真は完成当初の姿です。)
関東大震災 (1923年)以降に普及 していく鉄筋コンクリート造を先取りし,伝統 様式 から脱皮 したセセッション式の外観 をまとい,エレベーターや暖房 設備 まで備えた, 当時としては先進的な建物でした。
本社が西大路に移った後も今出川工場として稼働 してきましたが, 1959(昭和34)年に学校法人 同志社が買い取り,本社社屋を「臨光館 」と命名し, 増築-改造を加えながら活用してきました。建設後80年以上にわたって活躍 してきた臨光館ですが, このたび新しく生まれ変わることになりました。 取り壊 すことになった旧臨光館については,その歴史的価値の詳細な調査,記録を行うとともに, 同志社購入 時に建てられた「日本電池発祥 の地」の石碑 と並べて, ここに当初の外壁の一部を再現することにしました。2005年9月 学校法人 同志社