越生 生絹 発祥之地
おごせきぎぬはっしょうのち
八高線・東武越生線
越生では江戸時代から月に6回、2と7の日に「二七の市」が開かれ、周辺地域の物産が集まる市場町として発展した。幕末の横浜開港後には絹の取引が盛んになり、明治・大正期にその最盛期を迎えた。
「生絹」は、着物の裏地などに用いられた絹織物であり、越生は高品質な生絹の産地として知られていた。明治時代には「越生絹」の名で流通し、越生周辺で生産された生絹が集まる一大取引地となった。明治20年代以降には養蚕と織物業が盛んになり、「越生絹(裏絹)」と呼ばれる生絹が生産されたことも記録されている。
その取引の中心となったのが現在の絹会館付近である。明治33年(1900) には株式会社越生生絹市場が設立され、間口13間、奥行26間の建物2棟が新築された。取引の際に証印を押したことから「証印所」とも呼ばれた。明治39年(1906) には年間28万9,973疋(1疋は2反)の取引が記録されており、越生の絹取引が大きな規模に達していたことが分かる。
昭和5年(1930) には生絹市場の跡地に越生絹織物同業組合の事務所である織物会館が建てられ、平成20年(2008) に取り壊され絹会館が建設された。
9/23法恩寺マルシェの駐車場として使用されていた絹会館に建っている「越生生絹発祥之地」と生絹稲荷神社。
— 風間崇志@地域でしごとを共につくる人 (@manabi_shigoto) September 23, 2026
越生町はかつて絹で栄えていたんですね。
こういう地域の歴史を知ること、そのストーリーをうまく組み入れることは地域ならではの武器になります。
歴史だけはマネできない。#越生町 pic.twitter.com/sb5577PVLw
写真
碑文
越生生絹 発祥之地平成二十年五月吉日建立
織物組合会館新築記念
越生織物商工業協同組合
伝承壱千弐百年越生絹の由来
越生特産生絹の起源は今を去る壱千弐百有余年前の、元正天皇の御代霊亀二年(七一六)の頃に高麗人若光以下一七九九名が此の地に渡来し、農業と養蚕、機織りをこの山添いの村落に伝授されたのを起源としています。それから此の地より年々朝廷に貢物として生絹が献上されていたと伝えられています。
人皇四十五代聖武天皇が奈良東大寺大仏を建立され其の開眼供養の際に当越生付近の小領飛鳥部虫麻呂と言う人が、正倉院に絹布を献上したといい今尚正倉院御物に此の記録があると伝わっております。
豊臣秀吉が絹を持ってオランダ国の砂糖と交換し、領内に菓子司を置き茶の湯の菓子を作らせ、 その珍しき甘味を利用し、平和政治を図ったとも言われております。絹織物はこのように重要視され、奈良の昔より平安、鎌倉、室町、桃山、江戸時代の尾末期迄、此の地では生絹を持って年貢にすることが、長年続いた訳であります。
時は移りて明治となり明治五年、上州富岡の官営富岡製糸場(世界遺産候補)を始めとし、蚕糸、絹業界は、外資獲得の重要産業として我が国の基幹産業となり、政府の庇護のもと急速に近代化発展する。
当地に於いても蚕糸、絹業界、日を追って盛んとなり、生絹の取引を中心とする二・七の市の大盛況により、当越生は近隣に先駆け明治二十二年、町制施行を成し遂げ、日本一の生絹の生産地、生絹流通の中心地として「絹の都」埼玉・越生として全国に一世を風靡す。以後昭和五年迄の約三十年間は越生町、越生絹も、繁栄を極め至福の全盛期となる。この間、明治三十三年株式会社越生絹市場設立、此の地に生絹市場平家建二棟を建築する。大正十三年、越生織物協同組合を設立。
昭和四年から昭和五年にかけて越生町・越生絹繁栄のシンボルとして織物会館を建設するも昭和四年十月二十四日、ニューヨークの株の大暴落に始まる世界大恐慌の影響と、欧米各国の我が国軍事政権に対する経済封鎖の為、日本からの生糸・絹織物の輸出が停止となり、昭和五年末から昭和六年にかけて、繭・生糸・絹の価格が半年で七分の一まで大暴落すると云う悲運に遭遇、我が国の蚕糸・絹業界は一瞬にして潰滅する。当地に於いても二・七の市は閉鎖され、全盛を誇った越生絹も取引不能となり、整理、廃業、破綻が相次ぎ、企業統制、戦時下の軍需産業への転換、終戦と昭和二十四年統制経済解除までの十八年間は越生町・越生絹関係者にとっては、正に苦難の暗黒時代であった。
戦後の復興は昭和二十四年末、越生織物商工業協同組合の設立と共に始まり昭和三十年代、四十年代前半までは順調に生産量等も回復し、戦前の最盛期の三分の一程度に復興するも生活の洋風化、車社会の到来と共にきもの需要は急減し越生絹の需要も激減する。この間幾多の変遷を経て昭和四十八年三月上旬インフレ先取り、狂乱糸価、わずか二週間で生糸・絹の価格が二倍となる。この大暴騰によりこれまで輸出国であった我が国が、眉・生糸・絹織物の輸入国となる一大転換期となり、以後韓国・中国よりの輸入品に業界全体が苦しむ事となる。
昭和四十九年、国内養蚕業擁護を大義名分とする一元化輸入制度が施行され、眉・生糸・絹織物の輸入は蚕糸価格安定事業団による国の管理となる。昭和五十二年、日米繊維交渉の結果、織機の買上が進行、当地に於いても織物業者の整理廃業が進む。昭和五十九年十一月、蚕糸価格安定事業団、実質破綻(制度崩壊)、以後十五年間我が国、蚕糸・絹業界は整理廃業が進行する。
当地に於いても、伝承壱千弐百年越生絹の歴史と伝統も時代の趨勢は如何んともしがたくここに終焉をむかえる。
今般の織物会館建替を機に本記念碑を建立し、古き越生町・越生絹の繁栄と日本の蚕糸・絹業界の終焉を記録しこれを後世に伝える。平成二十年五月吉日
越生織物商工業協同組合
織物組合の略歴
織物関係の組合は明治時代となり、蚕糸・絹業界の近代化と共に当地周辺の同業者により自然発生的な組織として設立される。
- 明治三十二年
- 武蔵絹布改良組合設立
- 明治三十三年
- 株式会社越生絹布市場設立。この時期、絹市場二棟が立てられる。
- 昭和三十六年
- 改良組合が武蔵織物同業組合(本部・川越)に改組。
越生に出張所設置- 明治四十二年
- 武蔵織物同業組合から絹織物関係者が独立
武蔵絹織物同業組合(本部・飯能)設立- 大正四年
- 武蔵絹織物同業組合越生支部・毛呂支部により、越生神社境内に「武蔵生絹碑」建立
- 大正十三年
- 武蔵絹織物同業組合から越生支部・毛呂支部が独立し、越生織物同業組合を設立
- 昭和四年~昭和五年
- 生糸・絹織物検査所や組合事務賞を設置するため組合員の総力を上げて織物会館建設
明治時代末期・大正時代・昭和五年、織物会館完成迄が越生絹・越生町の全盛期であり、大正十三年越生織物同業組合設立時には、組合員数実に千百余名、年間三十万疋の生絹を生産し、二・七の市の大盛況が生糸流通の中心として「絹の都」埼玉・越生として全国にその名を一世風靡する。しかしながら、昭和五年末から昭和六年にかけて世界大恐慌の影響と欧米各国の経済封鎖により、生糸の輸出が停止し、半年で生糸・絹の価格が七分の一まで大暴落する事態となり(日本の相場史で歴史に残る暴落)日本の蚕糸・絹業界も全盛を誇った越生絹も一瞬にして壊滅する。
- 昭和七年
- 越生絹織物工業組合に改組(戦中~戦後の混乱期に数回改組あり)
第二次大戦争中に織物組合(織物会館)を証印所又は納税所と呼んでいたのは、戦時特別税法のため国の依頼により、絹一疋毎に証印して納税を実施したため、昭和二十四年末の統制経済解除まで続きました。
- 昭和二十四年十二月二十二日
- 越生織物商工業協同組合に改組、今日に至る。
戦後の復興は、昭和二十年代、三十年代順調に復興し、組合員数十七名・年間十万疋の生絹を生産全国販売するまでに回復するも昭和四十年代となり、生活の洋風化・車社会の到来と共にきものの需要が急減し、生絹の需要も激減する。昭和四十九年 繭・生糸・絹織物の輸入国となった我が国は一元化輸入という保護貿易を実施、この蚕糸政策の失敗により蚕糸・絹業界の衰退がより一層進み、平成十年、壱千弐百年の歴史と伝統を誇る越生生絹も、時代の趨勢は遺憾ともしがたくここに終焉を迎える。
越生織物商工業協同組合 組合員 平成二十年月三十一日現在
芳名・住所 略
越生絹 繁栄のシンボル織物会館
- 着工
- 昭和4年(1930年) 8月11日
- 完成・竣工式
- 昭和5年(1931年) 4月23日
- 総工費
- 13,462円57銭
- 解体
- 平成20年(2008年) 5月末日
(老朽化のため解体)織物会館竣工記念 越生絹の由来記念碑建立
文責 越生織物商工業協同組合
理事長 金子猛雄
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