嵐山 町名 発祥之地
らんざんちょうめいはっしょうのち
東武東上線
案内板は、駐車場などに複数設置されている。
- 嵐山町観光協会
http://www.ranzan-kanko.jp/
写真
碑文
武蔵嵐山渓谷嵐山町名発祥之地
嵐山町長関根昭二
嵐山町名の由来
武蔵嵐山渓谷は、大平山の斜面とそれに続く緩やかな斜面で、槻川の流れと一帯となって、すばらしい景観をつくり出しており、埼玉を代表する景勝地の一つです。
「武蔵嵐山」の名勝は、「日比谷公園」を設計した本多静六林学博士が昭和三年(一九二八年)この地を訪れ当時の模様を、「わしがあの渓谷の奥にある山寺の住職本多文教さんに案内され初めてあの景勝を探ったのは山とはいはず、渓谷とはいはず一面に紅葉に彩られた秋だった。百余年を経た亭亭たる松林、幾十尺の岩頭にはひ上がる眞紅の蔦、白砂を洗ふ清い水、岩間に雪を吹く激流實に京の嵐山の景そのままだったので思はずこれは武蔵嵐山といったのがそのままこの地名となったもので兎も角も関東平野にまれに見る景勝地たる事は疑ひありません」と折紙をつけている。
昭和三十年四月十五日旧菅谷村、旧七郷村が合併後、昭和四十二年四月十五日町制施行され公募によりこの地の名称をつけ嵐山町と決定した。その後、平成九年関係者のご協力により、さいたま緑のトラスト保全地として取得した。よって、ここに碑を建て、嵐山町名発祥の記念とする。平成十一年十一月吉日
嵐山町
武蔵の小京都
嵐山渓谷へようこそ
「武蔵嵐山(むさしらんざん)」は、昭和3年10月、当地を訪れた日本初の林学博士であり、埼玉県の偉人である本多静六博士により名づけられ、それが由来となっています。
本多博士は現在の嵐山渓谷やその中枢部を踏査して、渓谷と周囲の見事な紅葉・赤松林の美しい景観を眺め、その様子が京都の「嵐山(あらしやま)」に大変よく似ているということで、「これは武蔵嵐山だ」とつぶやきました。
その後、嵐山渓谷には料理旅館「松月楼」が建てられ、戦前の最盛期には年間百万人の観光客が訪れたと言われています。東武鉄道も「東日本新名勝」と大いに紹介し、池袋から当時の菅谷駅(昭和10年に現在の「武蔵嵐山駅」に改名)まで電車料金の往復割引も行っていました。また、200名以上利用する場合は臨時列車まで走らせた程でした。
戦中は、東京の学童疎開の受け入れを行い、戦後になると「一平荘」として昭和30年代頃まで営業を行っていました。
その後、建物は撤去され、平成10年に周辺樹林地13.5haをさいたま緑のトラスト保全第3号地の指定を受け、保全を図っています。現在は松月楼の跡地に展望台が建っています。
当時の写真からは、その賑わいと「武蔵嵐山」の風光明媚な風景を見ることができます。嵐山町・嵐山町観光協会