新選組 発祥の地跡
しんせんぐみはっしょうのちあと
阪急京都線 大宮駅から西へ400m、壬生川通四条交差点を南へ200m。壬生寺の北側に隣接する「八木家」の入口に木の板に書かれた発祥碑が建っている。
八木家は、文久2年(1862) に上洛した14代徳川家茂の警護のために上京した"浪士隊"の内芹澤鴨、近藤勇らのグループ13名が"屯所"(宿所)とした場所。
建物は当時のまま残されており、芹澤鴨が粛清された時に鴨居につけられた刀傷もそのまま現在に残っている。浪士隊は"新選組"と名前が変わり、隊士も増加してこの家が手狭になったため、慶応元年(1865) 西本願寺に屯所を移した。
調査時は大河ドラマで新選組が取り上げられているため、ここ八木家と隣の壬生寺を訪れる観光客が非常に多い。特に八木家は狭いため、入場待ちの行列が長々と続いている。
八木家の門前には「新選組屯所遺蹟」と刻まれた大きな石碑が建っており、また以下の立て札も見られる。
八木家住宅
八木家は、壬生村きっての旧家で、かって壬生郷士の長老をつとめていた。また、幕末には新撰組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られて いる。建物は、長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門は文化元年(1804)、主屋は文化6年の造営と知られる。
主屋は、西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を3室ずつ2列に配する。入口は土間部分に開くほか、東南隅に式台を備えた本玄関を配し、その北に仏間、奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門の外観は、腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開くなど、昔のおもかげをよく残している。
壬生地区は今日市街化が著しいが、かっては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の農家の遺構として、また、新撰組ゆかりの建築として貴重であり、昭和58年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
京都市
【リンク】八木家
写真
碑文
新選組発祥の地跡
ここは、幕末の頃、京都の浪士取締りや治安維持に活躍した新選組の宿所があったところである。
文久3年(1863)春、將軍家茂の上洛警護のため、清川八郎の率いる浪士組が入洛したが、その宿舎の一つとして使われたのが、当時壬生郷の郷士宅であった 当屋敷であった。浪士組は、在京20日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、引き続き京都の警備のため 残留し、京都守護職松平容保の支配に属して「新選組」と名のった。
当初、新選組は、当屋敷に「新選組宿所」の標札を掲げ、隊員は僅か十数名で発足したが、次第に隊員が増加し、付近の農家にも分宿した。以後、市中の治安維持に努め、元治元年(1864)の池田屋事件で一躍その名を轟かせた。
翌年の慶応元年(1865)4月、屯所は西本願寺に移された。
京都市