須坂 ぶどう 発祥地
すざかぶどうはっしょうち
長野電鉄 北須坂駅から南東へ1.2km、飲食店や食品スーパーが集まる「おいしい広場」の北側隣地の国道403号沿いに立派な石碑が設置されている。
長野市周辺では果物の生産が盛んで、長野市の隣である須坂市においても、ぶどう・りんご・もも・プラム・さくらんぼ・なし・ブルーベリーなどがよく見られる。その須坂における葡萄栽培は、明治19年(1886) に当地 高畑地区で勝山仲兵衛が始めたとされる。
特定の品種にこだわらず、市場の人気によって栽培種も切り替えてきたようだ。
写真
碑文
須坂ぶどう発祥地
頌徳 勝山仲兵衛翁の碑
長野県知事 高村午良書
昭和六十一年は、勝山仲兵衛翁が明治十九年髙畑の地にぶどうを導入してより丁度百年、翁は弘化元年、上髙井郡沼目村に生まれる、成人して父と共に農業を営む、当時我が国は生糸を中心に外国貿易が盛ん鳴りつゝあった、翁はこの時代にあって換金作物の必要性を痛感し、豊洲村髙畑にぶどう園の開園を計画した
翁は栽培法調査の為東京駒場の農科大学(東大農学部前身)を尋ね指導を仰いだが、同校でもまだ栽培法が明らかでなく当時ぶどう栽培の第一人者小沢善兵衛氏を紹介され氏に師事研究の後、コンコード、甲州、善光寺等数十品種の苗を持帰り四反歩に植付けをした、反あたり百三十本の密植栽培で棚は栗丸太であった、当時県下では試作を試みる者はあったが欧米系ぶどうの企業的栽培に取り組んだのは恐らく翁が最初であった
販売は中野街道沿に直売店を開いたその後同志も増え栽培面積も近隣合せて二十余町歩になり髙畑ぶどうの名声を高めた、しかし栽培面積の増加に伴って生食需要の限界を感じた翁は醸造家津山友治郎氏を氏を招き、ブドー酒の製造にも着手した、一時は三箇所の醸造場より煙が立ち昇り活況を呈した、
このように全く新しい産業を此の地に芽生きさせ定着させた翁の業績は誠に偉大なものでした、
翁は惜しくも明治三十七年三月四日に歿する、そして百年ぶどう産業も幾多の苦難な道を経ながら、戦後髙級ぶどう巨峰の出現により栽培熱が急速に髙まり現在農協管内のぶどう栽培農家は六百余戸、その面積は実に百八十町歩に達し全国一の大産地を誇るに至った、この祈念すべき百年目に当たり、先人の遺徳を讃えこの遺業を後世に残すべく百年祭を催し事業の一環として翁の頌徳碑を建立する、昭和六十一年四月吉日
勝山忠兵衛頌徳碑建設委員会
委員長 北沢富雄
副委員長 込町静男
藤本光男
協賛者芳名
須坂市
須坂市農業協同組合
長野県経済連
須坂市農協ぶどう部会(以下個人名略)
施工 ㈲ 藤沢石材