武田氏 発祥の地
たけだしはっしょうのち
中央本線 韮崎駅から西に2.5km、中央自動車道 韮崎I.C.から南西に4.9km、武田信義館跡(韮崎市神山町556-2)の説明で発祥地であることが主張されている。
平安時代末期、源氏の一族である武田信義が館を構えた場所と伝えられる。武田信義は、甲斐源氏の一族である逸見清光の子とされ、源信義とも呼ばれた。保延6年(1140)、武田八幡宮で元服し、武田太郎信義を名乗ったと伝えられる。これが甲斐武田氏発祥の由来とされる。
治承4年(1180)、信義は以仁王の令旨を受けて挙兵し、平氏打倒の戦いに加わった。甲斐源氏の一族を率いて勢力を拡大し、東国の武士団の中で有力な立場を築いた。しかし、源頼朝が鎌倉を拠点に勢力を伸ばすと、信義と頼朝の関係は緊張し、甲斐源氏の独立した勢力は次第に制約を受けることとなった。
館跡は武田集落の東側の平地に位置し、周辺には「お屋敷」「お庭」「お旗部屋」「お堀」「的場」など、館に由来するとされる地名が伝わる。現在は民家や耕地が混在する一帯となっている。平成20年(2008)の発掘調査では、水晶や中国産陶磁器などが出土し、この地域における中世の活動を知る手がかりとなった。
館跡の近くには、信義が氏神とした武田八幡宮や、信義の菩提寺とされる願成寺がある。
山梨県韮崎市の武田信義館 2025年8月の訪城 甲斐武田氏の始祖である信義公の館跡と伝わります。近くの願成寺には武田信義公の墓所があります。 https://t.co/ETINDf7OH4
— しんごっと (@shngot1130) September 28, 2025
写真
碑文
韮崎市指定
史跡 武田信義館跡武田の里は甲斐源氏総領武田氏発祥の地である。
今を去る八百余年の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。
治承四(一一八〇)年高倉以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起し、信濃・駿河に転戦して武功をたて、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の排斥にあい、文治二(一一八六)年病没したとされる〔享年五十九歳〕。
しかし、建久元(一一九〇)年頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、同五(一一九四)年の東大寺造営や小笠懸の射手にも信義の名がみられることから、文治二年以降も生存していた可能性がある。
墓は鳳凰山願成寺にある。
信義の館跡は武田区の東端を占め、およそ二百五十メートル平方の地で、今は民家・耕地が入りまじっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お屋敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名を伝えている。
平成二十(二〇〇八)年には館跡推定地の東部の発掘調査により、水晶・中国産陶磁器などが出土した。平成二十五年三月
韮崎市教育委員会
市指定
文化財 武田信義館跡
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