朝里 学校教育 発祥の地
あさりがっこうきょういくはっしょうのち
函館本線
明治2年(1869) 9月、何の前触れもなく朝里の浜に何十隻もの船に分乗した大勢の武士が上陸した。戊辰戦争で敗れ明治政府から北海道に移住を命ぜられた会津藩士たちだった。その後も藩士とその家族の上陸が続き、総勢3000人にもなった。碑文にも書かれているように、これら武士の中に寺子屋を開く者も現われた。
その後藩士の多くは小樽の東(現在の余市町)に集団移住したが、小樽に留まって教育者となった藩士も多くいた。これが小樽の教育の源流になったと言われる。
ちどり公園を見下ろす坂の上に、「故町田先生頌徳碑」と刻まれた石碑が建っている。明治21年(1888) から33年間朝里小学校に勤めた、町田外也校長の顕彰碑である。
朝里小学校の同窓会では今でも毎年この碑の前で町田先生を忍ぶ集まりを開いているという。
頌徳碑
生キテハ一郷ノ師父トナリ,死シテモ余香ヲ放ツモノ,故町田外也先生ハ其人也
先生ハ慶応二年青森県西津軽郡蝦袋ニ生ル。県立鰺澤師範ヲ卒ヘ,明治弐拾壱稔,当朝里小学校ノ訓導トナリ,次デ校長トナルヤ,爾来参拾有参稔間,終始一貫,児童之薫育,青年子女之教養,一村之風化ニ至ルマデ,悉ク慈愛ト至誠ノ発露ナラザルハアラズ。生前幾回ノ表彰叙勲ト頌徳碑ノ建設ハ,以テ徳望ノ如何ニ高カリシヤヲ語ルニ足ル。冀クハ遺霊長ヘニ地方人心ヲ薫化シテ已マザランコトヲ大正拾四稔壱月拾五日
従四位勲四等 石川 啓
写真
碑文
朝里学校教育発祥の地
古き器に
新しき
教えを盛りし
朝里校
小樽市長 新谷昌明
朝里における学校教育の草創は,文久ニ・三年 の頃ニシン漁で沸く朝里浜で漁舎を仮泊所として いた松前藩士が,付近の子供達を集めて手習を教 えたのが始まりである。
やがて,明治二年九月戊辰の役で降伏した会津 藩士数百人が朝里浜に上陸し分散して漁家に滞在 したが,その中で漢字に造詣の深い渡辺竹八と名 乗る武士が寺子屋を開いて四書五経を教えた。
そのうち小樽の隆盛に伴い次第に朝里の人家も 増加したので,明治九年七月漁場の親方亀谷藤次 郎が小樽郡長に教育所開設を願い出て八月認可と なり,その秋十一月朝里村十七番地に三十五坪の 校舎を建て,東野義秀校長を初代とする朝里教育 所が開設された。それがこの地である。
平成九年五月二十四日建立
小樽市立朝里小学校
開校百二十周年記念祝賀協賛会堂楽 書