囲碁「本因坊」発祥の地
いごほんいんぼうはっしょうのち
御池通と丸太町通の間,夷川通が寺町通にぶつかった所の歩道上に 『囲碁「本因坊」発祥の地』と書かれた駒札が建っている。その足元には 2つの石の腰掛けに挟まれて石の碁盤が置かれている。
囲碁は奈良時代に,遣唐使に加わった吉備真備が日本に伝えたとされ,貴族の遊びとして広まったようで, 清少納言や紫式部も打ったらしい。戦国時代になると 戦争のシミュレーションとして武将たちに大いに好まれ, 信長・秀吉・家康など有力武将が碁の達人を抱えたりした。
江戸時代になると,本因坊家・井上家・安井家・林家の四家が碁の家元と呼ばれ,優秀な棋士を育て 互いに切磋琢磨しあった。年に一回 江戸城内で行われる
本因坊の起源は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕えた日海にさかのぼる。日海は僧侶であり、寂光寺の塔頭の一つ本因坊に住んでいたことから本因坊日海と呼ばれた。後に還俗し、本因坊算砂を名乗った。
算砂は卓越した碁打ちとして知られ、信長との対局で「碁は妙手なり」と称賛されたという逸話が残されている。秀吉、家康にも重用され、碁の家元として本因坊家を確立した。家康は算砂を碁所に任命し、囲碁界を統率させた。これにより本因坊家は、安井家、井上家、林家と並ぶ囲碁界の四大家元の一つとして、江戸時代を通じて権威を保った。
歩道上に置かれた石の碁盤は,平成21年(2009) 1月に 発祥の地の駒札を設置した際にモニュメントとして造られ, 記念に 今村九段と滝口九段の打ち初め式が行われた。
写真
碑文
囲碁「
本因坊 」発祥の地この
寺町通 の名は,天正十七年(1589)頃、豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたことに由来する。
寂光寺 もそのひとつで,別名を久遠院 ともいい, 通りを挟んだ西側の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。
寂光寺の塔頭 「本因坊 」に住まいしていた僧侶の日海 (1559~1623)は, 信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く,江戸幕府が開かれると, 徳川家康の命によって寺を弟子に譲り,本因坊算砂 と改名して幕府の碁所 を任された。
算砂は江戸に屋敷を拝領した後も,寺町の本因坊を本拠として, 春に江戸へ下り,年末に京に戻る暮らしをしていた。
以降,本因坊の名は世襲で受け継がれたが, 二十一世の秀哉 は,真の実力者が本因坊を名乗るべきとしてその名跡 を日本棋院に譲り渡し, 昭和十一年(1936),今なお続く選手権制の「本因坊戦」が誕生した。
宝永の大火(1708)で罹災した寂光寺は現在,仁王門通東山西入るに位置し, 算砂愛用の盤石や算砂直筆の囲碁狂歌などの貴重な史料を蔵している。京都市
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