松浦党 発祥之地
まつらとうはっしょうのち
伊万里市から
松浦党は平安時代から戦国時代にかけて肥前松浦地方で組織された武士団の連合体で、それぞれの武士団は早岐氏・伊万里氏・大島氏・五島氏……など地名を苗字とした。「松浦党」の名前が記録に現われるのは平安末期からで、中国や朝鮮との貿易を行うかたわら、九州北西部を拠点とする海賊として怖れられた。そ の後源平合戦・元寇・南北朝の動乱期などでは松浦水軍を率いて活躍、勇名を馳せた。
戦国時代に入ると、平戸にはポルトガル船などが入港し盛んに貿易が行われた。平戸の松浦氏は貿易により利益を背景に一族をまとめ戦国大名として力をつけ、秀吉による天下統一の時期には領地を安堵され、朝鮮出兵から秀吉の死後の関ヶ原合戦と続く動乱期にも巧みに時代を読みきり近世大名としての地位を得た。
江戸時代に入ると鎖国のために貿易が長崎に奪われたが、平戸を城下町として松浦氏の平戸藩10万石を構え、明治維新まで続いた。
写真
碑文
松浦党発祥の地
松浦市
(社)平戸法人会
松浦党発祥之地と松浦水軍の兜
松浦市は松浦党発祥之地です。
松浦党とは、中世に海を舞台に活躍した武士団のことで、嵯峨天皇の子孫にあたる渡辺久 がその始祖といわれています。久は1096年にこの地方を治めるため御厨検校(長官)としてこの地にお もむき、松浦市今福町に梶谷城を築き「松浦」の姓を名のり定住しました。
松浦党はその活動を万里の海に求め, 交易による大陸文化の摂取にもつとめました。
松浦党の活躍はめざましく、源平の舟合戦などにも参戦しました。元軍が北部九州に攻め寄せた文永の役と弘安の役では、目の前の湾内に集結した元軍の軍船に奇襲戦法などで応戦しました。
私達は郷土のロマンと先達者の活躍を誇りにし、その想いをこの兜に託し、松浦氏の存在を示すものであります。
このモニュメントの参考にした兜は武将用のもので, 実際の舟戦では鍬形(左右の角)は取りはずしていた。
八幡とは、全国の八幡神社の祭神であり、武家では軍神として崇め武運長久の祈りをこめて、これを押し立てて舟戦に臨んだのである。松浦市観光協会