毛利元就公 教訓状 発祥の地
もうりもとなりこうきょうくんじょうはっしょうのち
山陽本線 新南陽駅の西300mにある勝栄寺(周南市中央町3-10)山門脇に石碑が建つ。
写真
碑文
毛利元就公
教訓状発祥の地1557年霜月25日
「教訓城発祥の地碑」由来
毛利元就は、弘治元年(一五五五年)十月、厳島合戦において陶の大軍を壊滅させ陶晴賢を自刃せしめました。
その後、防長二国(長門・周防)の各地で大内氏の残党の蜂起が相次いでいるとの報に、事態を重視した元就は、弘治三年(一五五七年)十一月、長男隆元を伴って再びこの地、富田に進駐し、ここ勝栄寺を本陣として一揆を鎮定した。
元就は、老駆を顧みずして毛利家の為に精励するの範を自ら示すと同時に、在陣中に自ら筆を執り、長男「隆元」、次男「元春」、三男「隆景」にあて、各自毛利家の為に一致協力して努力すべきことを懇々と諭した十四カ条にわたる教訓城(三矢の訓)を認めたと言われている。
現在、この教訓城は国の重要文化財に指定されており、毛利博物館(防府市)に所蔵されている。新南陽市教育委員会