りんごの発祥之地
りんごのはっしょうのち
函館本線
日本におけるリンゴ栽培は非常に古く,平安時代には既に中国から持ち込まれたリンゴ(和りんご)があったといわれるが,西洋種のリンゴが持ち込まれたのは江戸時代末期で,松平春嶽(福井藩主)が江戸の藩邸で栽培し食用にしたという。
戊辰戦争に敗れ会津の地を追われた会津藩士は,多くが陸奥国(現・むつ市)に移住して斗南藩を起こしたが,一部の藩士たちは蝦夷地の開拓団を結成し,193名が明治4年(1871) に余市地区に入植した。当時 北海道開拓使次官であった黒田清隆は,アメリカで農務長官を務めていたホーレス・ケプロンを開拓使顧問として招聘し,ケプロンはリンゴ・ナシ・サクランボなどの苗木を持ち込んで栽培を奨励した。明治12年(1879) に500本の苗木が余市の農家に配布され,日本で初めてのリンゴ(西洋リンゴ)が実をつけた。これは「
ちなみに「緋衣」の名前は,リンゴの赤色が 会津藩主松平容保が孝明天皇から下賜された「緋の御衣」の赤を連想させたために名づけられたという。
余市産の 緋衣・国光などのリンゴは農業博覧会に出品され好評を博し,高値で取引されるようになり,生産も軌道に乗り,余市地方は北海道におけるリンゴの一大産地に発展した。緋衣は 明治時代から昭和の初めまで 北海道余市地方の代表的品種だったが,その後新品種が開発されたために生産量が激減し,現在ではほとんど生産されなくなった。しかし会津出身の吉田清亥氏が経営する吉田観光農園では 緋衣の原種がまだ大切に保存・栽培されている。
写真
碑文
りんごの発祥之地
由来
明治四年 開拓使長官(当時次官)黒田清隆米國を視察 北海道開拓のため開拓使顧問として 米國農務長官ケプロンを迎える清隆帰國に際し ケプロンの建議もあって 林檎苗木などを土産として持参 明治八年これを全道各農家に配布する。
明治十二年 當地山田村に於いて わが國初の洋林檎結実する。昭和五十三年七月十六日
渡道五十周年を記念して吉田清亥 建之