藤岡 高等女学校 創立之地

ふじおかこうとうじょがっこうそうりつのち

八高線 群馬藤岡駅から南西に700m。藤岡公民館の南西南東隅,藤岡市民ホールの道路を挟んで北側に,茶色の石碑が建っている。正面と背面に黒い石のプレートが嵌め込まれ「群馬県立藤岡高等女学校創立之地」と刻まれている。

藤岡高等女学校の沿革は 碑文と多くが重複するが,次のようになる。

  • 1918(大正7)年,「藤岡町立実科女学校」として この地に開校。
  • 1923(大正12)年,県立に移管され,「群馬県立藤岡高等女学校」と改称。
  • 1948(昭和23)年,学制改革により,「群馬県立藤岡女子高等学校」に改称。
  • 1955(昭和30)年,藤岡市藤岡787番地に移転。

群馬県では 藤岡地区に新しい高校を設立する構想が持ち上がり,2002年ごろから検討が進められ,藤岡女子高校と藤岡高校を廃止して,新たに「県立藤岡中央高校」を設けることになった。形の上では 藤岡高校と藤岡女子高校の統合の形態はとらず,新設校として設立された。藤岡中央高校は平成17年(2005) に,藤岡女子高校の敷地内の仮校舎で開校。翌年に 藤岡市中栗須909に校舎を新築して移転している。

藤岡女子高校は平成19年(2007),在校生の卒業と共に 藤岡高校と共に閉校となった。

参考:藤岡中央高等学校

藤岡女子高移転後の市民体育館は、群馬・長野・埼玉県境に近い御巣鷹の尾根に墜落し520人が死亡する惨事となった1985年の日航機墜落事故において、遺体の置き場として利用された。

日本航空JA八一一九号機が昭和六十年八月十二日夜、多野郡上野村山中御巣鷹の尾根に墜落し、五百二十名の尊い生命を奪われたという航空史上未曾有の大惨事となりました。事故に遭遇されて非命の最期を遂げられた五百二十名の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。また最愛の肉親を失われたご遺族の皆様に対して深くご同情申し上げます。
これへの対応は、同夜直ちに自衛隊員、警察官、消防関係者及び日赤救護班員を中心とする緊急救助活動が開始されました。翌八月十三日には生存者の救助に引き続き遺体の捜索収容作業が本格化しました。十四日からは、現地上野村から藤岡第一小学校庭までヘリコプターにより遺体を運び市民体育館に移して、医師、歯科医師、警察官及び看護婦等によって遺体の検視、身元確認が開始されました。
遺体の安置は八月十四日から十月五日まで実に五十三日に及びました。これを支援するために藤岡市、市民、挙げて奉仕活動を開始し、特に市民奉仕団四十三団体延べ五千四十二名に及ぶ方々が日夜寝食を忘れて奉仕活動に力を尽くされました。この救護、支援活動に徹せられた方々のご労苦に対し深く感謝申し上げるとともに、この地が、遺体安置の場所となったことをを、このような惨事が再び起こらないことを念じ、ここに銘記します。

昭和六十一年八月二十日 藤岡市長 吉野益

(原文まま)

石碑が設置され、体育館は取り壊され、現在は市民ホールとなっている。

写真

  • 藤岡高等女学校創立之地(2018)
  • 藤岡高等女学校創立之地 背面(2018)
  • 藤岡高等女学校創立之地と日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所碑
  • 藤岡高等女学校創立之地
  • 藤岡高等女学校創立之地 碑文-(1).jpg

碑文

群馬県立
藤岡高等女学校創立之地

大真書

大正七年四月十日
藤岡町立実科女学校として この地に創設される
大正十二年四月一日
群馬県立藤岡高等女学校と 改称
昭和二十三年四月一日
学制改革により群馬県立藤岡女子高等学校となる
昭和三十年十二月二十四日
藤岡市藤岡七百八十七番地に移転
この地を去る
昭和五十五年十月八日
創立六十周年を記念し、この碑を建てる

群馬県立藤岡女子高等学校
六十周年記念事業委員会

藤澤群黄刻

地図

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