わが国の 玉葱栽培 この地にはじまる
たまねぎさいばいこのちのはじまる
札幌市営地下鉄 東豊線 環状通東駅から 南東に200m。札幌村郷土記念館の正面入口から入ってすぐ左側に,背の高い台座の上に据えられた 黒御影石の記念碑が建っている。台座には 茶色の御影石に刻まれた碑文が貼り込まれている。
日本におけるタマネギの栽培は,明治11年(1878) に札幌農学校の教官ブルックス(クラークの後任)によって試験的に栽培されたことに始まる。しかし 当時はタマネギの食べ方が知られていなかったため 販売は不調であったが,やがて全国に普及するにつれて,生産量も増加し,札幌村(現・札幌市東区)付近での生産高も増加した。
この時の種子はアメリカから輸入された“イエロー・グローブ・ダンバース”という品種で,これが“
現在の日本でのタマネギ生産高は100万トン強で,そのうち北海道産が50%を超えているが,“札幌黄”は現在ではほとんど作付けされなくなっている。
札幌村郷土記念館のあるこの地は,かつて大友亀太郎の役宅があった場所。大友は幕末の慶応2年(1866) に石狩地方の開拓を命じられ,この地に役宅を建て村を開いた。彼は森を切り開き,道路を作り,農業用水のための大友堀(現在の創成川)を開削するなどした。郷土記念館の前庭には大友の銅像が建っている。
明治35年(1902) に北海道に町村制が施行されると,周辺を合わせて札幌村となり この地に村役場が置かれたが,昭和30年(1955) に札幌村は札幌市に吸収合併された。
札幌村郷土記念館は,昭和52年(1977) に開設された。
写真
碑文
わが国の
玉葱栽培
この地に
はじまる高木圭介書
日本の玉葱は明治四年(1871) 開拓使が米国から種子を輸入し札幌官園で試作したあと,多くの苦心が重ねられ,元村で栽培が定着した。
明治十三年中村磯吉が一町歩余を栽培して良品を収穫し,みずから東京に送って販売を試みたが失敗した。しかし,同十六年に武井惣蔵が道外への販売に成功したことによって,本格的に玉葱が生産されるようになった。
明治三十年代には,札幌村にはじまった玉葱が次第に近村に広がり,また耕作者による選抜改良も年々すすみ,優良な品種“札幌黄”が育成され,篠路村,白石村を合わせた一大産地となり,札幌特産として全国に出荷されるばかりでなく,広く海外にも輸出されて,その名声が一段と高まった。その後,時によって盛衰もあったが,この地区は現在まで一世紀余,玉葱一筋のの農業が続いている。
これまで多くの苦難に耐えて日本最古の玉葱産地を築き,栽培に努力した先人に感謝をささげるとともに,札幌黄玉葱の名を後世に残すため,栽培発祥にゆかりの深いこの地をえらび記念碑を建てる。昭和五十三年十一月二日
札幌玉葱記念碑建立期成会