横浜市設 貯木場 発祥の地
ちょぼくじょうはっしょうのち
港の見える丘公園から 800mほど東。高速横羽線の新山下ランプの近くに “貯木場入口”交差点がある。 ここから 北東に進むと, 奥まった場所に 4枚のプレートから成る「発祥の地記念碑」がある。
記念碑によると, この貯木場は 昭和8年(1933) に完成, 昭和49年(1974) に横浜市金沢区に移転した, と書かれている。
現在は 貯木場だった面影はほとんど残っておらず, ヨットやモーターボートなどが係留され, 陸上にも目立った施設はなく, やや荒れた感じになっている。貯木場跡の再開発も あまり進んでいないようだ。
写真
碑文
「横浜市設貯木場発祥の地記念碑」
木のみなと昭和59年12月3日
横浜市長
細郷道一
横浜市設新山下貯木場の沿革
大正十二年九月一日の関東大震災は, わが国有史以来の大災害となり, 特に横浜市・神奈川県の被害は甚大で, 横浜港でも港湾諸施設の破壊などで混乱しました。
そしてこの大震災を契機に, 復興用木材として米国産の丸太・製材品等が大量に輸入されましたが, 当時は貯木場がありませんので, 木材は市内河川に繋留保管されておりました。しかし河川筋の損傷で筏の繋留が不安定となり大変困難しました。
昭和初期になると, 輸入木材が未曽有の大量入荷と滞貨のため, 港内の公有水面に氾濫繋留された木材で, 港湾一般荷役機能に大障害を与える事態となりました。
その為横浜市では, 関係業界の強い要請もあり, 当時では類をみない最新式の設備を誇る貯木場を二年余の歳月と,百二十万円の工費をもって昭和八年十二月にこの地に完成しました。
そしてその経営管理を 昭和九年十二月に創立された横浜港木材倉庫株式会社に委託, 又荷役業務は横浜港いかだ請負業組合所属の14社が合併し設立された 株式会社豊組がこれにあたりました。当時東京港は不開港でありましたので, 輸入木材は総て横浜港で本船から水面に卸し, 筏に組んで東京木場方面に回漕したため 大変な活況でした。又この貯木場周辺に多数の製材工場が操業いたしました。第二次世界大戦中は, 輸入杜絶のため保管堀も一時他用途に転用されましたが, 戦後再び貯木場として機能を回復しました。
昭和三十年代になると, 外国産木材の大量輸入時代となり入荷は激増, そこで昭和三十五年木材業界と荷役業界が中心となり, 関係機関の参加を得て横浜港木材保管調整審議会を設立, 円滑な入荷と保管, 貯木場の利用効率の増進等貯木場をめぐる諸問題を処理しました。昭和四十年代の輸入最盛期には年間四十万立方米の取扱をなし, 神奈川県内の需要はもとより, 関東一円の製材工場, 合板工場向け木材の受入基地としてその役割を果しました。そ の間 新山下貯木場及び河川を利用した臨時貯木場は常時満庫状態となり, 貯木場として十分な機能を果せなくなってきました。
ために昭和四十九年四月横浜市金沢区に埠頭施設, 貯木施設, 木材センタ ーを包含した金沢木材専用港が建設され, 本貯木場の機能が移されました。高速道路横羽線の延伸, 湾岸道路, ベイブリッジ等の着工に伴って, 昭和五十七年よりこの貯木場の再開発が検討され 新たな発展が期待されております。横浜市設新山下貯木場開設五十周年記念
昭和五十九年十二月吉日横浜港木材倉庫株式会社
横浜港木材保管調整審議会