交流電化 発祥之地
こうりゅうでんかはっしょうのち
旧国鉄の交流電化は、まず昭和30年(1955) に仙山線の仙台-作並間での実用化試験(50Hz)が行われ,昭和32年(1957) には北陸線の敦賀-田村間(60Hz)で 主要幹線として初めて実用化された。この事実を記念するため昭和33年(1958) に発祥碑が建立された。
北陸線の直流/交流電化は 複雑な歴史をたどっている。
敦賀-田村間の交流電化の後も直流区間との接続区間である米原-田村間は しばらくの間非電化とされ,この区間は蒸気機関車(後にディーゼル機関車)が使用された。昭和37年(1962) に米原-田村間は直流電化され,田村駅にデッドセクション(架線に給電されない区間)が設けられた。
その後 京阪神地区からの電車を北陸線に乗り入れるため,平成3年(1991) には 田村-長浜間が、平成18年(2006) には 長浜-敦賀間も直流に変更され,日本で最初に交流電化された区間は全て直流電化区間となった。
北陸本線の敦賀-糸魚川間は 現在も交流60Hzで電化されているが,この線から分岐する七尾線は直流電化,越美北線・氷見線・城端線・高山線・大糸線は非電化であり,糸魚川から新潟側(JR東日本所属)も 直流により電化されている。このため北陸本線の約270kmの区間だけが交流で残されている。
JR西日本は この区間の為に交直両用電車を多数保有しているが,ローカル用電車の更新時期が近づいているため, 交直両用電車の更新を行うのか,この区間を直流化して他線との車両有効活用を図るか,興味深い。
後に、平成27年(2015) に北陸新幹線が長野~金沢間を開業させ、北陸本線 金沢~直江津間が地元自治体主体の第三セクタとなった。JR西日本の交流電車がいくらか譲渡されている。令和6年(2024) には金沢~敦賀間の北陸新幹線が開業となり、北陸本線 敦賀~金沢間も第三セクタ化される。京阪神方面からの列車は敦賀止まりとなり、北陸本線を直流電化する話は実現しない見込み。
なお、直流電車は設備に費用がかかるが車両は安くあがるので、高頻度運転される都会に向いている。交流電車は、設備にはあまり費用がかからないが車両が高額となるので、車両をたくさん必要としない田舎での運用に残りがちだ。
令和5年(2023) 頃、取り壊しが予定されたため、クラウドファンディグで資金を調達し、北陸本線・小浜線・ハピラインふくい 敦賀駅 北口前に移設された。
写真
碑文
交流電化発祥之地
金沢鉄道管理局長 矢山康夫書
由来
世界最初の六〇サイクル交流電化による鉄道動力革命の成功を記念して近代動力の中心敦賀機関区に碑を建立するに当りわが国鉄交流電化発祥の由来を記す フランス国鉄が試験に成功 した五〇サイクル交流電化の新しい技術が矢山康夫によってわが国鉄に紹介されたのは一九五二年(昭和 廿七年)春である。一九五三年八月総裁長崎惣之助の提唱により交流電化調査委員会が発足副総裁 天坊裕秀・技師長藤井松太郎・副技師長関四郎・調査役矢山康夫らを中心に広く各界の学識経験者の協力を得て調査が開始された 一九五四年九月実地試験線区として仙山線が選ばれ一九五五年八月十日最初の交流機関車日立製直接形ED四四一が決定 さらに三菱製整流器形ED四五一を加えての総合試験が行なわれ交流方式の優位が明らかにされた 一九五六年三月同委員会は商用周波数交流電化が わが国においても有利であると報告 総裁十河信二・技師長島秀雄らによって交流電化の採用が 決断されその試金石として北陸線米原敦賀間の幹線に急遽実施することとなった 以来一年六か月にわたる国鉄各機関および工事関係者必死の 努力により一九五七年(昭和三十二年)十月一日深坂新線の開通と同時に六〇サイクル交流機関車ED七〇形による交流電気運転が世界注目のうちに開始され商用周波数による高電圧の利点と牽引動力として優れた性能をいかんなく発揮 わが鉄道 動力近代化の魁けをなしたのである その衝に当った指導の責任者総裁十河信二・技師長島秀雄・常務理事藤井松太郎・同並木裕・運転局長大塚茂・電気局長関四郎・工作局長岡益雄・中部支社長竹内外蔵 金沢鉄道管理局調矢山康夫・大阪電気工事局長武藤悌三ならびに機関車の製作会社三菱電機・新三菱重工の名を刻んで交流電化の成功を永久に記念したい
アジア各国鉄道首脳者交流電化視察団を迎えるの日
1958年5月17日建立中浜海鳳書