交流電化 発祥之地(移設)

こうりゅうでんかはっしょうのち

北陸本線 敦賀駅から南に1km。敦賀駅の南に 北陸線の上り下りの線路に挟まれた,南北に1km余りの長さの凸レンズ状の区画がある。ここにはJR貨物の敦賀機関区があって,機関車などの基地になっている。このほぼ中央付近に,コンクリートの台座の上に「交流電化発祥之地」と書かれた石碑が建っている。交直流の切り替え区間であるデッドセクション附近だとのこと。


令和5年(2023) 頃、取り壊しが予定されたため、クラウドファンディグで資金を調達し、北陸本線・小浜線・ハピラインふくい 敦賀駅 北口前に移設された。

写真

  • 交流電化発祥之地
  • 交流電化発祥之地 背面 碑文

碑文

交流電化発祥之地

金沢鉄道管理局長 矢山康夫書

由来

世界最初の六〇サイクル交流電化による鉄道動力革命の成功を記念して近代動力の中心敦賀機関区に碑を建立するに当りわが国鉄交流電化発祥の由来を記す フランス国鉄が試験に成功 した五〇サイクル交流電化の新しい技術が矢山康夫によってわが国鉄に紹介されたのは一九五二年(昭和 廿七年)春である。一九五三年八月総裁長崎惣之助の提唱により交流電化調査委員会が発足副総裁 天坊裕秀・技師長藤井松太郎・副技師長関四郎・調査役矢山康夫らを中心に広く各界の学識経験者の協力を得て調査が開始された 一九五四年九月実地試験線区として仙山線が選ばれ一九五五年八月十日最初の交流機関車日立製直接形ED四四一が決定 さらに三菱製整流器形ED四五一を加えての総合試験が行なわれ交流方式の優位が明らかにされた 一九五六年三月同委員会は商用周波数交流電化が わが国においても有利であると報告 総裁十河信二・技師長島秀雄らによって交流電化の採用が 決断されその試金石として北陸線米原敦賀間の幹線に急遽実施することとなった 以来一年六か月にわたる国鉄各機関および工事関係者必死の 努力により一九五七年(昭和三十二年)十月一日深坂新線の開通と同時に六〇サイクル交流機関車ED七〇形による交流電気運転が世界注目のうちに開始され商用周波数による高電圧の利点と牽引動力として優れた性能をいかんなく発揮 わが鉄道 動力近代化の魁けをなしたのである その衝に当った指導の責任者総裁十河信二・技師長島秀雄・常務理事藤井松太郎・同並木裕・運転局長大塚茂・電気局長関四郎・工作局長岡益雄・中部支社長竹内外蔵 金沢鉄道管理局調矢山康夫・大阪電気工事局長武藤悌三ならびに機関車の製作会社三菱電機・新三菱重工の名を刻んで交流電化の成功を永久に記念したい

アジア各国鉄道首脳者交流電化視察団を迎えるの日
1958年5月17日建立

中浜海鳳書

地図

地図

敦賀市木ノ芽町 付近