室町幕府 発祥の地

むろまちばくふはっしょうのち

地下鉄 烏丸御池からすまおいけ駅の北東約300m、御池通りから高倉通りに入った所にある京都府保険事業共同組合(保事協)会館(京都市中京区高倉通御池上ル柊町583-2)前の紫陽花の植え込みに、控えめな石標とその足下にはステンレスの銘板が設置されている。

当地は、鎌倉幕府に続く武家政権となる室町幕府を開いた足利尊氏の居宅があったとされ、当地で執政していたという。その後、三代 足利義満によって北に2.5kmほどの大聖寺付近に移転し、当地は等持寺となり、足利家の菩提寺となる。

等持寺は等持院と統合され、当地から去った。

写真

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碑文

足利尊氏・等持寺跡

室町幕府発祥の地

─足利尊氏邸・等持寺跡─

京都府保健事業協同組合・保事協会館ののあるこの付近は、室町幕府初代将軍足利尊氏(一三〇五~一三五八)の「三条坊門第さんじょうぼうもんてい」(「二条万里小路第」)のあったところである。尊氏邸の範囲については諸説あるが、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路までのこうじ(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北二五〇m、東西一二〇mの土地を占めていたと考えるのが最も合理的であろう。尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文三年(一三五八)にはここでこうじた。この地は、後に「室町幕府」と呼ばれた政権の発祥の地であったわけである。
後にこの邸宅は「等持寺とうじじ」という寺院に改められた。尊氏は三つの寺院を建てることを願ったが果たせず、そのため「等持寺」という文字の中には三つの「寺」の字が含まれることになったと伝えられている。等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たした。しかし、応仁・文明の大乱(一四六七~七七)以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院とうじいん(北区)に合併されてしまった。近辺に残る「御所八幡宮」は、尊氏邸・等持寺の鎮守社であったという。
なお、この地は平安京の条坊表示では左京三条四坊七町にあたり、歌人として著名な右大臣藤原定方(八七三~九三二)の邸宅「大西殿おおにしどの」があったことでも知られている。後にこの邸宅は冷泉天皇皇后昌子まさこ内親王(九五〇~九九九)の御所となった。紫式部が『源氏物語』で描く藤壷中宮ふじつぼちゅうぐうとその御所三条宮さんじょうのみやは、昌子内親王と大西殿をモデルのひとつとした可能性が高い。
京都府保健事業協同組合は、こうした由緒ある史跡の一角に活動の本拠を置くことを悦び、組合創立四五周年を記念してここに顕彰碑及び解説版を建立する。

一九九五年一〇月一六日

京都府保健事業協同組合
解説 京都文化博物館

地図

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中京区高倉通御池上ル柊町 付近 [ストリートビュー]