太陽開拓団 発祥の地

たいようかいたくだんはっしょうのち

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撮影:
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日高自動車道 E63 日高厚賀ランプから北東に23km、太陽の森ディマジオ美術館(新冠町太陽204-5)として利用されている、太陽小学校跡の敷地に石碑が建つ。木の皮学校保存室の近く。

太陽地区は、かつて新冠御料牧場の一部であり、昭和22年(1947) に牧場の土地が開放されたことを契機として、本格的な開拓が始まった。

昭和22年(1947) には、旧満州からの引揚者や日本製鋼所室蘭製作所からの帰農者などを中心とする開拓団56戸が入植した。翌昭和23年(1948) にも入植が続き、複数の団体によって農地の開墾と集落の形成が進められた。入植者たちは、森林や原野を切り開き、農業を営むための土地と生活基盤を築いていった。

開拓の進展に伴い、昭和23年(1948) には太陽小学校や太陽神社が設けられ、地域の生活を支える施設が整備された。農業では畑作と酪農を組み合わせた経営が行われ、入植者たちの協力によって農村集落が形成された。一方、開拓初期には自然環境の厳しさや農業経営上の困難にも直面し、地域の暮らしを安定させるまでには多くの労苦があった。

写真


碑文

入植三十五周年記念

太陽開拓团発祥の地

贈
勲五等双光旭日章
元太陽𫔭拓団長

森 春一

太陽の開拓と木の皮学校

太陽地区は、新冠御料牧場開放に伴い、開拓が行われた所です。第一次入植として、昭和二十二年一月、満州引き揚げ者をはじめとする五十六戸が、巨木におおわれたこの地に鍬をおろしたのが太陽の起源であり、その歴史が始まったのであります。太陽という地名の由来は、開拓団長の森春一氏が旧満州開拓局長 田中孫六氏を経て、当時の農林大臣和田博雄氏、鉄道大臣小見山等氏によって選定され、高松宮殿下可から命名されたものといわれています。その後、第二次入植として昭和二十三年に、樺太や日鋼室蘭を主として四十九戸が入植しました。
開拓の情熱は子弟の教育にもおよび、まずがっこうの設立をとの願いを込めて、丸太の柱と木の皮を屋根にしてわずか二十坪の学校を建てました。机や椅子も丸太の割り木を使い、丹精をこめて作られました。その様相から「木の皮学校」と呼ばれ、太陽小学校の歴史がここにスタートしたのであります。
冬はストーブをいくらたいても暖まらず、外へ出て駆け足をし、体を暖めながら勉強をしたといわれています。また、ガラスのない板戸窓を閉めると、教室の中は真っ暗になりました。しかし、太陽の人達の美しい夢や情熱と、魂が打ち込まれた誇るべき学校であったと思います。昭和二十四年に新校舎が建設されるまでの二年間、この木の皮学校が使われました。
私達は、木の皮学校開校当初の労苦と熱意を強く受けとめ、「初心を忘れず」今後の発展を誓い、ここに石碑を建立するものであります。

平成十九年九月十三日

太陽自治会

地図

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新冠郡新冠町太陽 付近 [ストリートビュー]